モノの価値や値段を決めること
けいこです。
LINEでは、着なくなった着物のことや、実家じまいのことが話題になってるので、それについて自分なりに考えたことを、こっちでまとめたい。
私が若かりし頃の話。気に入ったセーターを見つけて、それを買った後、ぶらぶらウインドーショッピングを続けてたら、なんと!同じセーターがちょっとだけ安かったのを見つけたことがあった。
悔しくて、家に帰ってぼやいてたら、父が「それが自由経済の基本や。自分が買おうと思った時の価格が適正価格やから、その後で、いくら安いもの見つけたからって言って、それを悔やむのはおかしい。」
当時は「ややこしいこと言うな」と思ったけど、この名言は、徐々に私の「モノの価値」を決める基準になった。
例えば「これ高かったのよ、100万円したのよ」と言われる50年前の毛皮のコートは、今も100万円で売買されるべきか。もっと低い値段しかつかないんだろう。まず毛皮のコートの需要が低くなってる。温暖化でそれほど寒くなくなった。動物愛護の精神が広がり毛皮のコートを着てると蔑視される。そもそも貨幣価値が(デフレが続いてる日本であっても)変わってる、などなど。
でも反対に、その毛皮はとっても希少価値があり、10倍の値段がつくことだってあるかもしれない。
アートとかコレクションのオークションなんて、その最たるモノだよね。「ポケモンカード」がすごい高価な値段で取引される一方、LINEで話題になった高価な着物は二束三文でしか買い取ってくれない。
ここに「理屈」なんてなくて、まさに自由経済の仕組み:「買いたい人が出したい値段で買う」
友人の書家が、着物で表装して書を額に入れるって話。着物は売ったらただ同然だけど、本当にその着物が自分にとって価値のあるモノなら、そして普段の生活で眺めてその着物の主を思い続けたいと思うのなら、10万円出しても私だったら作ってもらうかなあ。
元の着物が100万円で、それを10万円で売ることを考えるのではなく、
元の着物が100万円としたら、それにまた10万円払って、形をかえて楽しむ。
私は形をかえて楽しむ、はアリ!だと思うし、そういうことにこそ、お金を使いたいと思う←多分、少数派やとは思うけど。
一方、他の人にとったら、そこまでする必要はないかも、なんか損してる、と思うかもね。着物は着物として箪笥にしまっておきたい、「いつか着るかも」という気持ちを大切にしたい、と思う人がいても当然やよね。
モノが溢れているこの時代。価値観も生活様式も多様化してる。その「適正価格」を決めるのがますます難しくなってるね。