広島カープ・野村祐輔の原点:2007年夏の甲子園決勝で広陵と「死闘」を演じた「佐賀北」高校ナインはいま

広島カープの野村祐輔投手が、現役引退を表明した。

今日10月5日、地元・マツダスタジアムで現役最終登板として、先発する予定となっている。

野村祐輔は1989年、岡山県倉敷市出身。広島・広陵高校に進むと、3年の春・夏とエースとして甲子園に出場、夏の大会では準優勝に導いた。
その後、明治大学に進み、東京六大学野球リーグでも活躍を見せ、同リーグで史上7人しかいない「リーグ通算30勝&300奪三振」を達成、明治神宮野球大会では日本一に貢献した。そして、2013年ドラフト会議で広島カープから1位指名を受け入団した。

新人で迎えた2014年にはセ・リーグ新人王を受賞、2016年にはセ・リーグ最多勝のタイトルを獲得するなど、チーム25年ぶりとなるリーグ優勝に貢献、2017年、2018年とリーグ3連覇にも貢献した。

近年は故障が多く、一軍で思うような成績は挙げられなかったものの、NPB通算80勝をマーク。今季限りで現役を離れることとなった。
NPBデビューから登板はすべて先発で、今日の先発で211試合連続先発登板は自身の持つNPB記録を更新することになる。

野村祐輔の投手としての原点を語る上で、避けて通れないのが、「甲子園」という舞台である。
野村を擁する広陵は2007年夏の甲子園大会で、悲願の初優勝まであと一歩まで近づくが、「思わぬ敵」と戦うことになった。


2007年の広陵、3年生エース野村祐輔を擁し、春・夏の2季連続で甲子園へ

広陵高校は、野村祐輔が3年生に進級する春、2007年の第79回センバツ大会で、甲子園出場を果たした。

この年の広陵は3年生エースの野村祐輔を中心に、捕手の小林誠司(のちに読売ジャイアンツ)、三塁手の土生翔平(のちの広島カープ)、1学年下には上本崇司、控え投手の中田廉らを擁し、のちにNPBでドラフト指名された選手が4名もいた。

広陵は甲子園で迎えた1回戦、対成田高校(千葉)戦では、成田のエース・唐川侑己(のちの千葉ロッテ)と投げ合い、延長12回の末、野村が成田打線を1失点に抑え、2対1で勝利した。

2回戦の対北陽高校(大阪)戦でも先発、5対3で勝利に貢献したが、準々決勝の対帝京高校(東京)戦では初回につかまり6失点を喫し、そのまま1対6で敗れた。

その夏も、広陵は野村をエースに擁し、2季連続で甲子園進出を果たした。
甲子園大会の初戦、1回戦にいきなり駒大苫小牧(北海道)高校と激突することとなった。
駒大苫小牧は2004年に夏の甲子園初優勝を果たすと、2005年には2年生の田中将大(のちに楽天)を擁して夏の甲子園を連覇、2006年は3年連続決勝進出を果たしたが、斎藤佑樹(のちに日本ハム)らを擁する早稲田実業に敗れ3連覇を逃すも準優勝と、この大会も下馬評は高かった。
この試合は広陵はエース・野村が先発、駒大苫小牧打線に8回まで3失点を許すという苦しい展開になったものの、広陵が1点ビハインドで迎えた9回、打線が土壇場の2死から3点を奪って勝ち越し、野村が9回裏をゼロに抑えて完投勝利を収めた。

2回戦は東福岡(福岡)と対戦、野村が先発したが、序盤から味方の大量リードで降板、3投手の継投で14対2で勝利。
3回戦の聖光学院(福島)戦も野村が先発、これまた序盤で大量リードを築き、4投手の継投で8対2で勝利。
準々決勝の今治西(香川)戦でも先発した野村が初回に、1点先制されたが、その後、しり上がりに調子を上げ、2回以降は失点を許さず、8回を12奪三振で投げ切って、7対1で勝利した。

準決勝・常葉菊川(静岡)戦では、常葉菊川の先発の田中健二朗(のちのDeNA)を攻め、土生翔平が先制ホームランを放つなど、序盤で4対0とリードを広げ、先発した野村も7回まで無失点と好投した。
8回、常葉菊川打線に1点を許すと、9回2死走者なしから3連打を浴び、4対3と1点差にまで詰め寄られたものの結局、野村は被安打12を浴びながら3失点に抑えた。
広陵は4対3で常葉菊川を振り切り、ついに夏の甲子園大会では1967年以来、40年ぶり3度目となる決勝進出を果たした。

そして、広陵が臨んだ決勝戦・佐賀北高校(佐賀)との一戦はまさに死闘となった。

2007年夏の甲子園に吹き荒れた「がばい旋風」

佐賀県立佐賀北高校は1963年に佐賀高校から分離新設された県立高校で、硬式野球部は2000年に、夏の甲子園大会に悲願の初出場を果たしたが、初戦敗退に終わった。
同校は「文武両道」を是とし、運動部の練習時間にも制限が設けられ、定期試験1週間前から練習も休ませるというものだった。

佐賀北ナインは、初戦の福井商戦で、同校初の甲子園での勝利を飾ると、2回戦の宇治山田高校戦では延長15回引分け再試合を経て勝利を掴むと、前橋(群馬)帝京(東東京)長崎日大(長崎)と次々と強豪校を撃破した。

佐賀北という地方の公立校の野球部が、私立の強豪校を次々と破るさまは、いつしか「がばい旋風」と呼ばれるようになった。

「がばい」とは佐賀の方言で、「とても、非常に」という意味だ。
折しも、タレントの島田洋七による『佐賀のがばいばあちゃん』という著作がベストセラーになっていた。
広島出身の島田が疎開先の佐賀で、ユニークな祖母に育てられた際のエピソードを書籍化したところ、自費出版から瞬く間に700万部を超える売上となり、ドラマ化・映画化までされた。

しかも、佐賀北は決勝で古豪・広陵高校と相まみえることとなったが、なんと広陵高校は、奇しくも広島出身の島田洋七の母校で、しかも野球部員(中途退部)であったという、フィクションなら「ボツ」になってしまいそうな舞台まで用意された。

2007年夏の甲子園大会決勝・広陵対佐賀北戦

2007年8月22日、甲子園球場で行われた決勝戦、広陵対佐賀北戦。
この試合、広陵打線は、佐賀北のエースで2番手としてマウンドに上がった久保大貴を捉えて2回に2点を先制すると、7回にも2点を追加、4対0とリード。
一方、野村は先発して7回まで被安打わずか1本、無失点に抑えていた。

広陵は、春のセンバツ大会では1926年、1991年、2003年と3度、優勝しているが、夏の大会は1927年、1967年ともに2度とも決勝進出するも準優勝で終わっている。
広陵の「悲願」である、深紅の大優勝旗を手にするまであとアウト6つまで迫っていた。

8回裏、佐賀北の攻撃で1死から野村が連打を浴びた。
すると佐賀北ベンチの三塁側スタンドを中心に、甲子園球場を支配していた空気が一変した。
甲子園のスタンド全体が、ビハインドの佐賀北の背中を押すような雰囲気に変わったのである。
マウンドの野村はさらに、佐賀北の1番打者、辻尭人に四球を与えてしまい、1死満塁とピンチが広がった。

1球に泣いた野村祐輔・小林誠司のバッテリー

佐賀北の2番打者・井手和馬に対し、野村の制球は依然、不安定なままだった。
しかし、カウント3ボール1ストライクから投じたボールはストライクゾーンへ吸い込まれるように捕手・小林のミットに収まったように見えた。
だが、主審の右手は上がらなかった。
マウンドの野村は目を見開き、口を大きく開け、信じられないという顔をした。
捕手の小林誠司は一度は静止させたミットを地面に3度も叩きつけ、悔しさをあらわにした。

広陵・中井監督はたまらず伝令を送った。野村と小林のバッテリー、内野手たちがマウンドに集まったが、広陵ナインたちは地鳴りのように響く甲子園のスタンドの様子に平常心を失ってしまったようだった。

右打席には佐賀北の3番・サード、副島浩史
副島は今大会の初戦、準々決勝とホームランを放っていたが、この日、野村は副島に対し、前の2打席はスライダーで連続三振を奪っていた。
カウント1-1、この日の127球目に投じたスライダーは外角高めに浮いた。

副島は試合後にこう語った。

「狙っていた外角のスライダーが真ん中に来た。今日、唯一の失投だと思う。
打った瞬間、手応えがありました」


副島がフルスイングしたバットから放たれた打球はレフトスタンドに消えていった。
それは勝者と敗者がはっきりと入れ替わった瞬間だった。

9回表、広陵の攻撃も2死となり、打者・野村のバットが、佐賀北の2番手・久保貴大の投じたスライダーに空を切ると、佐賀北の「がばい旋風」というストーリーは完結した。

そして、広陵の悲願である夏の甲子園制覇はまたも成就しないまま、2007年の夏の甲子園は幕を閉じたのである。

「佐賀北」ナインのその後


広陵ナインの夢を砕いたホームランをスタンドに叩き込んだ副島浩史はいま、どこで何をしているのか。

副島は佐賀北を卒業後、福岡大学スポーツ科学部に進学、硬式野球部に入部して九州六大学野球リーグで本塁打王・打点王の二冠に輝き、ベストナインを受賞するなどの活躍を見せたが、プロから声がかかることはなかった。
大学卒業後、地方銀行に入行したものの、指導者になる夢を捨てきれず3度目の挑戦で教員採用試験に合格。
2018年秋から唐津工業高校野球部の監督として指揮を執り、現在、佐賀県立高志館高校で再び甲子園の舞台を目指しているという。





ー今後の抱負を教えてください

現在は佐賀県立高志館高等学校という高校で指導をしています。
昨年春までは他校との合同チームでしたが、現在は17人の部員と2人のマネージャーと日々頑張っています。
高志館高野球部は、公式戦勝利から7年間、夏の勝利は10年間遠ざかっています。
そのような状況ですが、甲子園という舞台を諦めずに追い求めていきたいと思います。
今後も「情熱」を持って生徒に接し、甲子園出場を目指して頑張ります。




優勝の瞬間、マウンドに立っていた久保大貴はどうしているのか。
筑波大学の硬式野球部、社会人チームを経て、2016年春から、母校の佐賀北高校の保健体育教諭として赴任した。
同校の硬式野球部の副部長を経て2017年秋から監督に就任し、2019年夏に監督として同校12年ぶりの甲子園出場を果たしている(初戦敗退)。

佐賀北の主将で、捕手で4番を打った市丸大介は早稲田大学に進み、硬式野球部へ。
4年生で念願の正捕手となり、その後、いずれもドラフト1位指名でプロ入りする斎藤佑樹大石達也福井優也とバッテリーを組み、2010年秋にはリーグ優勝も経験した。
福井は広島カープに入団したため、 野村とはのちに同僚になっている。

市丸は東芝野球部に進むが、2014年に選手を引退と同時に社業に専念すると、広島に転勤になったという。市丸と野村は、野村がカープでもチームメートとなった土生を交えて、食事をする仲だ。

「野村祐輔の引退」を聞いた副島は


甲子園という夢舞台で激しい戦いを終えても、勝者にも敗者にも心の片隅に互いの存在は残り続け、そして、やはり人生のどこかで再びまた邂逅する。


野村祐輔の現役引退表明は、互いに死闘を演じた佐賀北ナインの心に再び、何か期するものを呼び起こすかもしれない。

前出の副島は、野村の現役引退にあたり、以下のようなコメントを残している。




まだやれると思っていたから引退には驚いている。
自分が教員になったとき「おめでとう」と声をかけてもらった。
プロで頑張って投げている姿を見て、自分も「指導者として成長しよう」と刺激をもらえた。


広陵ナインと佐賀北ナインの間には、いまも「絆」がある。
そこにはもう「勝者」も「敗者」もない。
互いの人生、成長をたたえ合う、「元球児たち」の姿だけがそこにある。

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