阪神投手初、甲子園でのノーヒットノーラン達成、真田重蔵・重男
阪神タイガースの右腕、才木浩人が快挙を逃した。
6月9日、阪神甲子園球場での対埼玉西武ライオンズ戦に先発した才木浩人は3回1死から、西武8番の滝澤夏央に四球、5回、先頭の5番・佐藤龍世に四球を与えたが、7回まで打者23人、ヒットを1本も許さない投球を見せた。
すると、0-0で迎えた7回裏、阪神打線がそれまで好投を続けてきた西武先発の渡邊勇太朗から、1番・中野拓夢がセンターオーバーのタイムリー三塁打を放って2点を先制した。さらに、2番・前川右京のライトへのタイムリーで3点目を加え、3番の森下翔太もレフトへヒットを放ったところで、渡邊は無念の交代となった。
味方の援護を受け、才木は8回もマウンドへ。
しかし、先頭の源田壮亮に対してカウント2-0から3球目を投じたところで、右足が攣るアクシデントに見舞われた。
才木は一旦、ベンチに下がって治療を受けたものの、再びマウンドへ。
才木はフルカウントから源田をセンターフライに打ち取り、ノーヒットノーランまであと5人となった。
しかし、続く代打・山野辺翔と対戦すると、カウント0-2の3球目をライトフェンス際付近に痛打された。
ライトの森下翔太がフェンス際で懸命に右手を伸ばして捕球しようとしたが、キャッチできず、その間に山野辺は三塁に達し、記録は三塁打。
才木のノーヒットノーランは露と消えた。
才木は1死三塁のピンチを背負ったが、続く代打の鈴木翔平を1球でサードフライに打ち取り、さらに代打・中村剛也には四球を与えて、2死一、三塁としたが、続く1番の奥村光一に6球、粘られたものの、セカンドフライに斬って取った。
8回裏に9番の才木に打順が廻り、代打・原口文仁が告げられ、才木はここで降板となったが、8回、112球を投げて、被安打1、3四球、9奪三振、無失点に抑えるという圧巻の投球であった。
試合はそのまま阪神が3-0で勝利し、才木は完封・完投は逃したが、セ・リーグのハーラー・トップとなる7勝目(2敗)を挙げた。
阪神投手の甲子園でのノーヒットノーランは4人、うち日本人右腕は真田重男だけ
阪神の投手のノーヒットノーラン達成は過去8人。
そのうち、本拠地の甲子園球場での達成は、4人いる。
・真田重男 1952年5月7日 対広島カープ戦
・ジーン・バッキー 1965年6月28日 対読売ジャイアンツ戦
・江夏豊 1973年8月30日 対中日ドラゴンズ戦
・湯舟敏郎 1992年6月14日 対広島カープ戦
この中で、日本人右腕となると1952年の真田重男(真田重蔵)までさかのぼることとなり、才木は72年ぶり、2人目の快挙を逃したことになる。
真田重蔵・重男はどんな投手だったのだろうか?
真田重蔵、海草中で2年連続全国制覇、職業野球入り
真田重蔵(重男)は1923年5月27日、和歌山県和歌山市出身。
(1946年9月から1954年7月まで「真田重男」に改名している)
和歌山・海草中(現・和歌山県立向陽高校)の野球部では、1939年の中等学校優勝野球大会では三塁手として全国制覇、翌1940年の大会ではエースとして全国制覇を果たした。
1941年、夏の甲子園大会が中止にならなければ、海草中は3連覇も夢ではなかった。
真田は、大阪の繊維商社・田村駒社長で朝日軍のオーナーである田村駒治郎(二代目)から目をかけられ、1943年、朝日軍に入団、背番号「18」を背負った。
新人でノーヒットノーラン達成を延長で逃す、学徒出陣で海軍へ
真田は大きく曲がりながら落ちるドロップと速球が武器で、新人から
10月1日の南海戦では9回までノーヒットノーランで抑えながら、味方の援護がなく、0-0で迎えた延長10回裏、2死から中野正雄にレフト前に安打を打たれ、惜しくもノーヒットノーランを逃している。
この年、1943年、真田は新人ながら37試合に登板13勝13敗、防御率1.98(リーグ7位)を記録し、朝日軍のAクラス入り(3位)に貢献した。
学徒出陣で、海軍に入隊、職業野球から離脱を余儀なくされた。
戦後、職業野球に復帰、1試合被安打22のワースト記録
戦後、職業野球が再開された1946年に、田村が朝日軍を鞍替えして創設した「パシフィック」に復帰入団すると、1946年はチーム105試合のうち、約半分の49試合で先発登板を含む、63試合に登板、25勝26敗、防御率3.15という大車輪の活躍を見せた(この年、没収試合で取り消された勝利が1ある)。
特に49試合の先発で途中で降板したのはわずか6試合だけ、43完投という驚異的なスタミナで投げ続けた。
この年、真田は464回2/3を投げたが、これはNPB3番目のシーズン最多投球回記録で、被安打422、202失点、自責点163というのは破られないであろうNPBワースト記録である。
7月21日、阪急西宮球場での対阪急戦では22安打を打たれながら10失点で完投、敗戦投手となったが、これは1試合の被安打ワースト記録である。
3年連続20勝以上、ノーヒットノーラン達成、初代の沢村賞受賞
真田はそこから1948年まで3年連続でシーズン20勝以上を挙げた。
さらに、大陽ロビンス時代の1948年9月6日、阪神甲子園球場での対大阪タイガース戦では、遊撃手・松本和雄のエラーで完全試合は逃すが、自身初のノーヒットノーランを達成(NPB史上初の無四死球となる準完全試合)。
しかも、この登板を挟み、16イニング連続無安打無失点のプロ野球記録を樹立した。
この記録は2022年4月10日・17日に千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希が、完全試合を含む、17イニング連続パーフェクトを達成するまで、74年間、破られなかった。
2リーグ分立後の1950年、松竹ロビンスに改名されたチームで、137試合のうち、真田は61試合に登板、防御率3.05(リーグ8位)、最多勝となる39勝を挙げて、松竹のリーグ優勝に大きく貢献、初代の沢村賞とベストナインを獲得した。打撃でも打率.314、2本塁打、36打点と非凡な成績を残した。
松竹の98勝と真田の39勝は、現在でもセ・リーグ記録である。
毎日オリオンズと争った第1回の日本シリーズ、真田はシーズンの疲労が祟り、本調子ではなく2試合に先発したが、未勝利に終わった。
シーズンの最高殊勲選手は、チームメートで51本塁打、161打点と打ちまくった小鶴誠と争ったが、小鶴に譲ることになった。
ところが、この度重なる酷使で、真田の右肘はパンクし、松竹を解雇となり、すぐさま大阪タイガースに移籍することになった。
タイガースで右肘故障から復活、甲子園で2度目のノーヒットノーラン
右肘が癒えた真田は1952年、復活を遂げる。
1952年5月7日、阪神甲子園球場での対広島カープ戦、真田は2リーグ分立後、4人目となるノーヒットノーランを達成した。
戦前と戦後、職業野球の公式戦でそれぞれノーヒットノーランを達成したのは、藤本英雄と真田だけである。
しかも、NPBの公式戦で、甲子園球場でノーヒットノーランを2度、達成したのは真田しかいない。
同年は16勝、防御率1.97(リーグ3位)を挙げて見事に復活した。
しかし、真田の光り輝いた投手生命ももはやここまでで、あとは緩やかに坂を下るように投手成績は下降した。
晩年は打撃の良さを買われ、三塁手としての出場が多くなり、1956年はほぼ三塁手専任となると、オフに「藤村富美男排斥事件」の首謀者の一人と目され、球団から解雇を言い渡され、そのまま現役を引退した。
甲子園優勝投手、プロでも優勝でNPB通算最多の178勝
真田重蔵の投手成績は通算416試合に登板、178勝128敗、防御率2.83。
特に先発296試合でうち完投211試合という規格外のスタミナであった。
戦争による学徒出陣やシーズン中断がなければ、通算200勝の達成も可能であっただろう。
甲子園優勝投手で通算200勝を達成しているのは野口二郎と平松政次の2人がいるが、二人はプロで優勝を経験していない。
一方、甲子園優勝投手で、かつプロでもリーグ優勝を経験して通算最多勝利数を挙げているのは真田である(2番目は桑田真澄の173勝、日米通算では最多は田中将大の197勝)。
高校野球監督としても甲子園で優勝、西本幸雄の懐刀に
現役引退後は、大阪の明星高校の野球部監督となり、1963年夏の甲子園大会で全国制覇を成し遂げ、明星高校を甲子園常連校に育てた。
甲子園優勝投手が甲子園優勝監督となったのは、真田が初めてである。
その後、プロ野球界に復帰、阪急ブレーブスでは和歌山の先輩である西本幸雄監督の下、投手コーチを務めて、リーグ優勝4回、日本一3連覇に貢献、その後、西本が近鉄バファローズの監督に移ると、真田も移り、近鉄の初のリーグ優勝と2連覇に貢献した。
1990年に野球殿堂入りを果たし、1994年に71歳で亡くなっている。
甲子園で選手として2連覇を遂げ、プロで2度のノーヒットノーラン、高校野球の監督としても優勝に導いた真田重蔵は、甲子園にもっとも愛された男の一人かもしれない。
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