NPBで「首位打者」を獲得して「ベストナイン」を逃した選手たち(パ・リーグ編)/江藤慎一

NPBの2024年シーズンの「ベストナイン」が選出され、発表された。

セントラル・リーグの一塁手部門では、読売ジャイアンツの岡本和真が302票のうち187票を得て、自身2度目となる受賞となり、セ・リーグ首位打者を獲得したタイラー・オースティンは117票で2位となり受賞を逃した。

パシフィック・リーグで「首位打者」のタイトルを獲得して、ベストナインの受賞を逃したのは、過去3人いる。

1971年 江藤慎一(ロッテオリオンズ)
2001年 福浦和也(千葉ロッテマリーンズ)
2002年 小笠原道大(日本ハムファイターズ)

その第1号となった江藤慎一の波乱万丈のプロ野球人生を振り返ってみよう。

江藤慎一、ノンプロの日鉄二瀬から中日ドラゴンズに捕手として入団

江藤慎一は熊本県立熊本商業を経て、濃人渉監督率いる日鉄二瀬に進み、古葉竹識(のちの広島、南海)らと、捕手として都市対抗野球で準優勝に貢献、1959年、中日ドラゴンズに捕手として入団した。

江藤は1959年のシーズン、新人ながら主に一塁手として全130試合に出場、5番を任され、打率.281(リーグ6位)、15本塁打、84打点の好成績を挙げたものの、大洋ホエールズの大卒新人、桑田武が31本塁打を放ち、新人王は逃した。
1961年には外野手と一塁手を兼ね、自身初の20本塁打を達成してベストナインの外野手部門で初選出された。1962年には今度は正捕手として打率.288(リーグ4位)、23本塁打、61打点をマークすると、1963年からは主に左翼手として打率.290、25本塁打、70打点で、ベストナイン外野手部門で2度目の選出となった。

新人から6年連続全試合出場、2年連続で首位打者に

さらに江藤は1964年、新人から6年連続で全試合出場を続け、25本塁打、打率.323で初の首位打者のタイトルを獲得すると、1965年にもキャリアハイの29本塁打に打率.336で2年連続でセ・リーグ首位打者を獲得。特に1964年は24歳の王貞治(読売ジャイアンツ)が本塁打・打点の成績で独走し、9月初旬時点で打率もリーグトップにも立っていたが、江藤が猛追して、王貞治の「戦後初の三冠王」を阻止した。

長嶋茂雄・王貞治が共に現役だった1959年から1974年の16年間、セ・リーグで2年連続で主要打撃タイトルを獲得したのは、長嶋茂雄、王貞治、そして江藤慎一だけである。

江藤の闘志を剝き出しにしたプレースタイルによって、いつしか江藤の綽名は「闘将」となった。

中日を「任意引退」から、恩師「濃人渉」率いるロッテに移籍

江藤は1967年には34本塁打、1968年にも36本塁打とキャリアハイを更新し、中日を代表する主砲となっていたが、1969年も監督に就任した水原茂の叱責の厳しさに選手を代表して抗議したことで水原の怒りを買って構想外となり、オフに球団からトレードを通告された。
これに対して中日ファンが強く反対し、球団への抗議電話が殺到、署名運動まで起き、江藤も「中日の江藤で終わりたい」とトレードを拒否して、水原監督に残留を直訴したともされるが、江藤の訴えは退けられ、任意引退に追い込まれた。

しかし、1970年に日鉄二瀬時代の恩師である濃人渉がロッテオリオンズの監督に就任すると、中日と交渉の上、6月に交換トレードの形でロッテに移籍、江藤は現役復帰を果たした。江藤は途中加入ながら72試合で11本塁打、31打点を記録し、ロッテの10年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
巨人との日本シリーズでは、江藤はケガのため、代打出場がメインとなり、第5戦(東京スタジアム)で先発の高橋一三から先制2ラン本塁打を放ったものの、1勝4敗で敗れた。

NPB初、両リーグで首位打者も、ベストナインを大杉勝男に譲る

江藤は1971年には榎本喜八に代わり一塁手に定着し、開幕から四番打者として起用されると、自身の誕生日である10月6日に行われたシーズン最終戦の南海ホークス戦(東京)で自身3度目となる首位打者のタイトルを確定させた。
江藤はNPB史上初、セ・パ両リーグで首位打者という快挙を成し遂げた(その後、2011年に内川聖一が40年ぶりに記録)。

しかしながら、翌10月7日、ロッテのオーナーの中村長芳から大洋へのトレードを通告されるという憂き目に遭い、大洋の投手・野村収の1対1の交換という形で交渉が成立した(当初はロッテ側が江藤・成田文男の2人と平松政次とのトレードを申し込んだが大洋側に断られた)。
濃人監督がシーズン途中に放棄試合を起こして前半戦で二軍監督に配置換えとなり、後半戦からその後任に二軍監督の大沢啓二が就任したことで、首位打者をトレードで放出するという前代未聞の事態に至った。

しかも、このシーズンはパ・リーグを代表する一塁手には東映フライヤーズの大杉勝男がおり、全130試合に出場して、41本塁打でパ・リーグ本塁打王となり、打率.315(リーグ6位)、104打点(同4位)と、本塁打・打点で江藤を大きく上回ったため、江藤は首位打者にもかかわらず、パ・リーグのベストナイン一塁手部門での受賞を大杉に譲った。

パシフィック・リーグが1950年に始まってから、リーグ首位打者がベストナインの選出から漏れたのは江藤が初めてであった(しかも、これ以降、江藤がベストナインの選出されることはなかった)。

太平洋クラブライオンズで選手兼監督、2000安打達成、Aクラスへ導く

江藤は古巣のセ・リーグに戻り、新天地の大洋ホエールズでも1972年から1974年まで3年連続でシーズン15本塁打以上をマークした。
だが、1974年オフ、秋山登が新監督に就任したことで、江藤の故郷の九州を本拠地とする太平洋クラブライオンズへの移籍を画策、江藤は太平洋に選手兼任監督として移籍することとなった。
太平洋のオーナーは元ロッテのオーナー時代に江藤を放出した中村長芳であったが、再び江藤に白羽の矢を立てたのである。

プレイングマネジャーとなった江藤は1975年のシーズン、打者としては6月1日、古巣のロッテオリオンズ戦(川崎球場)でNPB史上初の全12球団から本塁打をマーク、9月6日の近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)ではついに通算2000安打を達成した。


江藤は監督としても選手の個性を活かした起用と采配で、若手のエース・東尾修が最多勝、移籍組の土井正博が本塁打王、白仁天が首位打者を獲得するなど、チーム成績は前期2位・後期4位の通算3位で、ライオンズが西鉄から離れて太平洋の経営に移ってから初のAクラス入りとなった。

しかし、経営難の太平洋フロントは江藤に対して「選手に個人タイトルばかり獲らせて、契約更改で困る」と評価しなかった。
太平洋フロントは次期監督に大沢への再度の打診を行うが、大沢は日本ハム監督就任が決まっており、一旦は江藤の留任が決まったものの、同年12月にMLBの名監督であるレオ・ドローチャーを招聘する構想に切り替えたことで江藤は監督を解任された。
江藤は一度は打撃コーチ兼任で選手として残留することを受け入れたが、年末になって太平洋を退団した。

古巣・ロッテに移籍、現役引退、通算2057安打、367本塁打

1976年、ロッテの金田正一監督から「プロとしての生きざまを若い選手に見てもらいたい」との誘いでロッテに復帰した。
開幕から打撃好調で5月には打率が3割を超えたが、6月になると右肘の古傷により成績は急降下、後期が始まるとほとんど出番が無くなり、8月を最後に出場は途絶え、オフに現役を引退した。

江藤は4つのチームを渡り歩き、通算2084試合、2057安打、367本塁打、1189打点、打率.287という成績を残した。ベストナインの選出は4年連続を含む6回であった。

引退後は「江藤塾」を旗揚げ「天城ベースボールクラブ」で優勝

江藤は現役引退後、プロで指導することはなく、もっぱらアマチュア野球人の育成に尽力した。
1985年に、静岡県湯ケ島町に日本野球体育学校(通称「江藤塾」)を設立、1986年からは同校のクラブチーム「天城ベースボールクラブ」が社会人クラブチームとして登録、公式戦の参加が許され、江藤は顧問としてベンチ入りしながら、アメリカ流の合理的な指導スタイルを徹底し、クラブ運営にも主導的役割を果たした。
「天城ベースボールクラブ」は1986年の全日本クラブ野球選手権大会に初出場、1991年には5年ぶり2度目の出場で初優勝を果たした。
その後、1992年にはヤオハンと業務提携して、「ヤオハンジャパン硬式野球部」、1998年にはアムウェイと業務提携してクラブチーム「アムウェイ・レッドソックス」として再出発したが、1999年に活動終了した。

江藤はその後もブラジルでの指導や、オーストラリアでのプロ野球リーグ設立に尽力したが、2008年、70歳で生涯を閉じた。

ノンフィクションライターの木村元彦による著書「江藤慎一とその時代 早すぎたスラッガー」には同じ時代を戦った「戦友」たちからのメッセージが寄せられている。

「江藤さんの生き様、野球人として、人間としての姿を今に伝えてほしい」(王貞治)
「彼は、自分の人生をかけて打ちにいっとるよね」(張本勲)
「必ず振ってくる。力勝負を好む人やった」(江夏豊)
「夢見る慎ちゃんっていうあだ名がついとったんです。
だけど今は、それが全部実現しているじゃないですか」(江藤省三・実弟)
「ギターの弾き語りをする野球選手に初めて会った」(有藤通世)


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