【祝・1万試合】ロッテオリオンズの歴史を振り返る(1950-1970年)

千葉ロッテマリーンズは2024年4月23日、本拠地・ZOZOマリンスタジアムでの福岡ソフトバンクホークス戦を以って、前身球団を含め、通算10000試合を迎える。

日本の職業野球が2リーグに分立した1950年に発足した球団としては、埼玉西武ライオンズ(当時は西鉄クリッパーズ)に次ぎ、2球団目となり、現存する12球団の中では7番目となる。

千葉ロッテマリーンズは1950年に毎日オリオンズとしてスタートし、毎日大映オリオンズ(大毎オリオンズ)、東京オリオンズ、ロッテオリオンズという改名を経て現在に至るが、現在の親会社であるロッテが経営権を取得したのは1971年のシーズンからとなる(チーム名に「ロッテ」が入るのは1969年から)。
パシフィック・リーグの6チームの中では、親会社がもっとも長く変わっていないチームということになる。

オリオンズとマリーンズを併せた通算9999試合の戦績は、4812勝4787敗、400引分で、勝率.501、貯金は25となっている。

オリオンズ・マリーンズは、通算10000試合のうち、千葉マリンスタジアムに移転してから、4451試合を数えることになり、チームの歴史の約半分を千葉で過ごしていることになる。



その間、本拠地も、後楽園球場、東京スタジアム、県営宮城球場(現在の楽天モバイルパーク)、川崎球場、そして、千葉マリンスタジアム(その後、ネーミングライツの取得により、QVCマリンフィールド、ZOZOマリンスタジアム)と移り変わった。



オリオンズ・マリーンズの歴史のうち、ロッテが経営権を取得する以前、1950年から1970年までを振り返ってみよう。


1950年、毎日オリオンズ、創設1年目で日本一

千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1950年の2リーグ分立時に職業野球への参入を果たした。

親会社の毎日新聞社は、ライバルの読売新聞への対抗心から、職業野球への参入を決め、パシフィック・リーグ設立の主導的立場を担っていた。
そして、毎日新聞は自身が運営するノンプロチームの大阪毎日野球団を母体に、社会人野球の主力選手や、大阪タイガースから選手兼監督の若林忠志、別当薫、土井垣武などの主力選手を引き抜くなど、編成に成功した結果、オリオンズは参入1年目にして極めて異例ともいえる、パシフィック・リーグ初代の覇者となった。
第1回「日本ワールドシリーズ」(現在の日本シリーズ)では、セントラル・リーグの覇者である松竹ロビンスを下し、最初のチャンピオンになった。

しかし、その後、オリオンズは優勝には届かず、観客動員数も伸び悩んだ。

1957年、大映スターズと対等合併し、「毎日大映オリオンズ(大毎)」と名称を変え、実質的に、大映社長の永田雅一がオーナーに就任した。

「永田ラッパ」と綽名された、よくも悪くも名物オーナーの永田雅一のワンマン経営が始まった。

1960年、西本幸雄監督の下、「ミサイル打線」でリーグ優勝も、日本シリーズ4連敗で解任


オリオンズは最初の優勝から10年後、1960年、西本幸雄監督の下、「ミサイル打線」を擁し、当時NPBタイ記録となる18連勝を樹立するなど、10年ぶりにリーグ優勝を果たした。しかし、日本シリーズで三原脩監督率いる大洋ホエールズにストレート負けを喫し、西本監督が永田オーナーから叱責を受け、解任された。

そして、1960年オフにオリオンズの経営権が、毎日新聞から大映に完全に移り、事実上、毎日新聞が球団経営から撤退したこともあり、さらに苦難の道が始まった。

狭い新本拠地・東京スタジアムで投打が噛み合わず

1961年のオリオンズは、打撃陣に山内一弘、榎本喜八、田宮謙次郎(阪神から移籍)というスターはいるものの、先発投手で頼れるのは小野正一だけというありさまで、前年のリーグ優勝から一気にBクラスに転落した。
1962年には鳴り物入りで「東京スタジアム」に本拠地を移転したものの、その狭さが禍して先発投手陣が育たず、4位。

1963年には巨人から補強した堀本律夫が15勝、成長株の坂井勝二が14勝、ベテランの小野が13勝を挙げたものの、長距離砲は山内一弘だけで投打が噛み合わず、5位に沈んだ。

1963年オフ、山内一弘・小山正明の「世紀のトレード」

1964年オフ、ここで永田オーナーは大きな賭けに出た。
オリオンズの打の主力の山内一弘と交換に、阪神からエース・小山正明を獲得するという、「世紀のトレード」を実現させたのである。
山内は毎日に入団して12年間で1516安打、262本塁打、876打点という大黒柱であり、榎本喜八と並ぶ生え抜きのスターである。
一方の小山正明も高卒からプロ入りして11年間でシーズン20勝以上を4回、通算176勝を挙げ、村山実と並ぶダブルエースとして阪神の初のリーグ優勝に貢献していた。

この1963年のオフ、ベテランの田宮謙次郎は引退、葛城隆雄も中日へトレードされ、ついに「ミサイル打線」は解体された。
そして、ヘッドコーチには中日ドラゴンズで監督経験のある濃人渉を招聘した。

1964年のシーズン、「東京オリオンズ」と名称を変えて臨んだ。
小山正明はリーグが変わっても、甲子園より狭い東京スタジアムになっても、ものともせず、キャリアハイとなる30勝を挙げ、坂井勝二も25勝を挙げたが、他の先発陣が奮わず、また打撃陣は山内の抜けた穴を埋めることができずに、5位に終わった。
1965年は小山が先発・リリーフで20勝を挙げたが、20敗を喫し、健康問題でシーズン途中に一時休養していた本堂監督はシーズン終了後に退任した。

「鶴岡一人監督」招聘に頓挫、プロ未経験の監督が就任

永田オーナーは再度、一計を案じた。
南海ホークスで監督を長く務め、勇退したばかりの鶴岡一人を監督として招聘しようと試みたのである。
鶴岡はその時点で南海の監督を20年間も務め、リーグ優勝10回、日本一2度の名将であり、前年もリーグ優勝を果たしての勇退であった。
鶴岡は監督就任に乗り気で正式発表寸前までいったが、ここで予想外の出来事が起きる。
鶴岡の後任監督であった蔭山和夫が就任4日後に急死するという不幸に見舞われたのである。
鶴岡はオリオンズ監督就任の意思を翻し、南海で監督に復帰することとなった。
かくして、オリオンズは監督候補が白紙となり、二軍監督である田丸仁が一軍監督に就任することとなった。

田丸はプロでのプレー経験はないものの、法政二高の野球部監督として、センバツで全国制覇の実績を持ち、母校・法政大学野球部でも指揮を執っており、その野球理論には定評があっての起用であった。

しかし、田丸率いるオリオンズは開幕5連敗を喫してスタートダッシュにつまづくと、その後は勝ったり負けたりが続き、結局、借金8の4位に終わった。

1967年、開幕から3試合連続完封負け、プロ野球初の屈辱

遠ざかる優勝に業を煮やした永田は、毎日オリオンズ創設メンバーの一人である戸倉勝城に次期監督として白羽の矢を立てた。
外野手だった戸倉は34歳でプロ入りしオリオンズに入団したが、翌1951年には阪急ブレーブスに移籍、43歳まで現役を続けると、現役引退後は1959年から1962年まで阪急の監督を務めた。
戸倉は5年ほど浪人生活を送っており、17年ぶりにオリオンズのユニフォームに袖を通すことになった。
しかし、40歳代で打率3割を打った打撃の名手であっても、オリオンズの貧打はどうすることもできなかった。

オリオンズは開幕戦となった南海戦に開幕投手に小山正明を立てたが0-2で敗れると、続く東映戦でも0-3で敗れ、開幕から2戦連続完封負けを喫した。

さらに開幕3戦目、東映の先発、前年1962年二次ドラフト1位指名で入団した大卒新人の高橋善正に抑え込まれ、ともに0-0のまま延長戦に突入。
それでも高橋善はオリオンズ打線に付け入るスキを与えず、ついに延長13回まで被安打2に抑えられた。
その裏、東映は6番・大杉勝男がサヨナラホームランを放ち、勝利した。
一方のオリオンズは初登板・初先発の大卒新人に完封勝利を献上し、ついに開幕から3試合連続完封負けという、プロ野球初の屈辱を味わうことになったのである。

その後も、オリオンズは開幕から6連敗を喫すると、6月に4連敗と6連敗を繰り返したところで、戸倉監督はあえなく休養となった。
8月に一旦、復帰したものの、再び6連敗を喫したところで、解任された。
後任として濃人ヘッドコーチが指揮を執ったが、挽回できなかった。
最終カードで2連敗すれば球団創設以来初となる最下位に沈むところだったが、最終戦に勝利し、それは免れた。

永田オーナーの方針転換、「攻撃野球」へメジャーリーガーを補強

そのオフ、永田は編成方針を一変させた。
米国メジャーリーグからジョージ・アルトマン、アルト・ロペスという2人の野手を補強して、攻撃力の向上を図ったのである
(ロペスはなんと人違いだったが、そのまま入団させた)
これが奏功し、中盤から主軸を「3番・ロペス、4番・アルトマン、5番・榎本喜八」で固定すると、ロペスは打率.289、23本塁打、74打点、アルトマンは打率.320、34本塁打、100打点で打点王となり、榎本も打率.306、21本塁打、77打点の活躍で、8年ぶりのAクラスを確保した。

苦境の永田、スポンサーにロッテを迎え入れ、「ロッテオリオンズ」へ

だが、喜びも束の間。
永田の本業である映画会社・大映がテレビという新しいメディアに圧され、年々、経営が悪化していたのである。
大映が傾いてしまっては、オリオンズに廻す資金もない。
永田は水面下で、球団の譲渡先を探したが、首尾よくいかず、途方に暮れていた。

ここで永田が頼った人物が、政治家の岸信介である。
岸は言わずとしれた、第56代・57代の総理大臣として、1960年の新日米安保条約の成立を主導した人物である。
永田から多額の政治献金を受けていた岸は永田を助けるために、国内の大手製菓メーカーのロッテを永田に紹介した。
ロッテは、米国の食品メーカーであるリグレーの日本上陸を恐れていた。
リグレーの主力はチューイングガムである。

そこでロッテの創業者兼オーナー社長である重光武夫は、岸の依頼を受けることで、リグレーの日本上陸に歯止めをかけることができると考えた。
かつ、オリオンズを広告塔として活用することを決めた。
かくして、オリオンズは経営権はそのままで、ロッテをスポンサーとして迎え入れることになり、チーム名も「ロッテオリオンズ」へと変更された。

1969年のシーズンも、ロペス、アルトマン、榎本を中心にした打撃のチームでオールスターゲームまでは勝率5割を上回る善戦を見せた。
すると、成田文男、木樽正明、小山正明の先発3本柱も機能し、8月に入り、引分2を挟んで8連勝とようやく波に乗り、9月下旬からも引分2を挟んで9連勝と
いかんせん、首位の阪急と2位の近鉄には追いつけず、貯金15ながら3位で終わったが、2年連続のAクラスは確保した。

しかし、オリオンズが優勝に向けて戦力を整えつつあった一方、永田が率いる大映はますます苦境に陥っていった。

1970年、永田オーナー悲願の優勝で東京スタジアムの宙に舞う


こうして、戦力が整い始めた1970年のシーズン、オリオンズは開幕ダッシュにこそ失敗したが、5月から貯金をつくり、6月には首位に立った。
そしてオールスターゲームの頃には2位に大差をつけて独走態勢に入った。
8月下旬は息切れしたが、9月に入って13勝4敗と再び持ち直した。
9月終了時点で2位の南海に12ゲーム差をつけると、優勝はもはや時間の問題となった。

そして、10月7日、本拠地・東京スタジアムでの西鉄ライオンズ戦で、歓喜の瞬間を迎えることになった。

オリオンズ先発の小山正明が5回までに3点を失い、0-3とリードされたが、6回表にマウンドに上がった2番手の八木沢荘六が西鉄の中軸打者を三者連続三振に斬って取り、流れを引き寄せた。
その裏、代打・江藤慎一のソロホームランで口火を切ると、アルトマンの2ランホームランで同点に追いつき、山崎裕之がセンターオーバーの三塁打を放って勝ち越し、醍醐の犠牲フライでさらに1点を追加し、5-3とした。
そして、7回からマウンドに上がった木樽正明が7回、8回を無失点に抑え、9回もマウンドへ。木樽は先頭の代打・広野功に一発を浴び、1点差に詰め寄られるが、西鉄の最後の打者・宮武勝利を抑え、ゲームセット。

東京スタジアムに無数の紙テープが舞う中、オーナーの永田はスーツ姿にオリオンズのキャップをかぶりグラウンドに分け入ると、フェンスを越えて乱入したファンたちにもみくちゃにされた。

ファンは異口同音に「永田さん、おめでとう」と叫びながら、永田をかつぎ、何度も胴上げした。
永田は号泣しながら宙を舞った。

日本シリーズは、セ・リーグ6連覇の読売ジャイアンツとの対戦となり、ロッテの先発陣は小山正明、木樽正明、成田文男の3本柱で臨んだが、3連敗の後、第4戦、本拠地・東京スタジアムで一矢を報いたのがやっとで、第5戦も敗れて、第1回日本シリーズ以来、20年ぶりの日本一はならなかった。
巨人打線は東京スタジアムでの3試合で、長嶋茂雄の2試合連続となる1試合2本塁打を始め、7本塁打を放ち、ロッテ投手陣を圧倒した。

それから、わずか3か月後の1971年1月、永田は大映の経営再建に専念するため、ロッテ社長の重光武雄に球団経営の肩代わりを要請、球団を正式にロッテへ譲渡し、同時にオーナー職を岸の秘書であった中村長芳に譲ることとなったのである。

(つづく)







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