【1934年12月26日】読売ジャイアンツ誕生、9つのトリビア【「プロ野球誕生の日」】
12月26日は、「プロ野球誕生の日」とされている。
読売ジャイアンツの前身である「大日本東京野球倶楽部」が1934年(昭和9年)12月26日に創立されたことにちなんでいる。
それ故に「ジャイアンツの日」とも言われている。
「ジャイアンツ」の誕生にまつわるトリビアを紹介しよう。
①そもそも、「巨人軍」は「日本最初のプロ野球チーム」ではない
日本初の「職業野球球団」は1920年、東京府東京市芝区(現・東京都港区)の芝浦に設立された「日本運動協会」である。
当時、学生野球が盛んであったが、その人気が過熱したが故に、学生選手たちの放蕩が目立っていた。
早稲田大学野球部のエースだった河野安通志(あつし)がその状況を憂え、職業野球チーム設立の中心となり、早稲田で河野のチームメイトであった押川清、橋戸信も参加した。
日本運動協会は社長を橋戸、専務を河野と押川の二人が務めた。
続いて、日本で2番目の職業野球球団として、「天勝野球団(てんかつ)」が、1921年(大正10年)に設立された。
日本運動協会は1922年(大正11年)、朝鮮・満州へ遠征し試合を行うと、帰国後は実業団を中心としたアマチュアチームと数多く対戦した。
1923年に入り、共に朝鮮遠征中だった日本運動協会と天勝や球団が、6月21日に京城(現・ソウル特別市)で対戦。これが日本初となるプロ球団同士の試合となった。
ところが、この年の9月1日に、関東大震災が発生した。
日本運動協会の本拠地の芝浦球場は震災自体には耐えたものの、救援物資置場として戒厳司令部に徴発され、仙台や戸塚球場などで試合をしていたが、翌1924年(大正13年)になっても返還されず、当局に返還の意図がないと知り、本拠地なしでは長く興行を続けていくことは不可能と判断、解散した。
一方、天勝野球団も、本部が全焼、道具を全て失うなどの甚大な被害を受けたため、球団は自然消滅したとされている。
河野安通志は1936年(昭和11年)にプロ野球リーグが結成されると、名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)の総監督として迎えられ、「日本プロ野球界で最初のジェネラルマネージャー」とも言われる。
その後、1937年(昭和12年)に退団して、後楽園イーグルスを設立した。
橋戸信は死後、1936年の都市対抗野球大会から、橋戸の生前の功績を讃えるために、大会最優秀選手に与えられる賞として「橋戸賞」が設置された。
②巨人軍の前身は大リーグ選抜と戦うために結成された「大日本東京野球倶楽部」
読売ジャイアンツの初代オーナーである、正力松太郎は東京帝国大学法科大学を経て警視庁入庁、警察官となった。
1917年に起きた米騒動を鎮圧したことで出世街道を歩んでいたが、警視庁警務部長を務めていた1923年、関東大震災後に起きた「虎ノ門事件」の責任を問われ、懲戒免官(直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦)されてしまう。
その後、読売新聞の経営権を買収、代表取締役社長に就任した。
だが、正力が読売新聞を買った後も、1928年(大正13年)頃まで発行部数は4万部と伸び悩み、東京の新聞社としては「三流」であった。
正力は発行部数を伸ばすために「興行」の重要性に気づいていたが、折しも、報知新聞の記者から米国のメジャーリーグ選抜軍を日本に招待することを持ち掛けられた。
朝日新聞も、毎日新聞も二の足を踏んでいた。
しかし、当時、読売の財政状況は火の車だったにもかかわらず、正力は当時としては破格のギャランティを承諾し、ニューヨーク・ヤンキースのスターであるルー・ゲーリッグらを擁する米大リーグ選抜チームを招聘、日本各地で全日本代表チームや東京六大学リーグを中心とした大学チームとの試合を行ったのである
まさに読売新聞の社運が賭けられた興行であったが、正力は宣伝の陣頭指揮を執り、日米野球のポスターで、東京を埋め尽くせと命じた。
結局、この興行は大成功となり、東京、大阪、神戸で試合は観客に溢れかえった。
読売新聞の発行部数はようやく22万部を達成したばかりだったが、これにより一気に5万部も伸ばしたという。
味を占めた正力は再度、メジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回、実現しなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ。
ところが、1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令によって、メジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなってしまったのである。
そこで、読売新聞・運動部長の市岡忠男(早大野球部の前監督)、浅沼誉夫(早稲田大学野球部元首相)、三宅大輔(慶応義塾大学野球部元監督)、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。
その結果、1934年6月9日、丸の内にある日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ、6月11日には創立事務所が設けられた。
③大日本東京野球倶楽部の「プロ契約第1号選手」は「三原脩」
1934年6月6日、大日本東京野球倶楽部に契約選手第1号として、早稲田大学野球部出身の三原修(当時、のちに「脩」に改名)が入団する。
その後、半年後の同年12月26日に発足するが、その直後の1935年1月に三原は入営のために一度、退団している。
日本職業野球連盟(職業野球、1939年から日本野球連盟)が発足した1936年9月に、後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰する。
三原はその後、西鉄ライオンズ の監督(1951 - 1959年)として、宿敵・水原茂率いる古巣・巨人を破って日本一をもらたし、大洋ホエールズ の監督(1960 - 1967年)として、チーム初のリーグ優勝、日本一に導くと、近鉄バファローズ (1968 - 1970年)、ヤクルトアトムズ の監督(1971 - 1973年)を歴任した。
④当時の親会社は読売新聞社ではなかった
大日本東京野球倶楽部の筆頭株主は、京成電気軌道(現・京成電鉄)であった。
筆頭株主の京成電気軌道を始め、株主には東京芝浦電気(現・東芝)、目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄)などが居並んでいた。
読売新聞はあくまで少数株主で、筆頭株主になるのは、戦後である。
⑤ジャイアンツの最初の株主には「阪神電気鉄道」「吉本興業」?!
「大阪タイガース」の株主に「読売新聞」?
しかも、大日本東京野球倶楽部の株主には、驚くべきことに、「阪神電気鉄道」、「吉本興業」の名前があった。
しかも、直後に誕生する「大阪タイガース」の株主には、なんと、読売新聞社(大阪支社)が名を連ねていたという。
ジャイアンツとタイガースの「創成期」は、資本の「ねじれ現象」が起きていたのだ。
⑥正力松太郎は初代社長ではなく、初代社長は「大隈重信の娘婿」
読売新聞の正力松太郎は、「読売ジャイアンツの初代オーナー」とされているが、
大日本東京野球倶楽部の初代の代表取締役は大隈信常であった。
大隈信常は、あの大隈重信の娘婿であり、衆議院議員を経て、当時は貴族院議員、早稲田大学名誉総長であった。1936年(昭和11年)には日本職業野球連盟の発足に伴い、初代総裁に就任した。
正力松太郎はあくまで一取締役で、他の取締役には庄田良(読売新聞庶務部長、元警視庁警部)、後藤圀彦(後藤国彦、京成電気軌道取締役社長)、市岡忠男(読売新聞、初代総監督、日本職業野球連盟初代理事長、東京巨人軍初代代表)、林正之助(吉本興業、その後、社長、会長を歴任)らであった。
⑦「読売巨人軍発祥の地」があるのは、千葉県習志野市谷津だった
千葉県習志野市にある京成本線・谷津駅から南へ500mほど歩いたところに、谷津公園がある。
1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津遊園内の谷津球場に、大日本東京野球倶楽部所属の30名の選手が集まり、全日本チームの合同練習、そして練習試合が行なわれた。
現存する「谷津バラ園」の入口右手に「読売巨人軍発祥の地」と書かれた石碑があり、
巨人軍関係者の手形が多数、並べられており、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治氏ら、多数のOBの名前が見られる。
⑧「東京巨人軍」の名付け親は、対戦相手の監督だった
大日本東京野球倶楽部は、1934年11月、ベーブ・ルースらを擁する米国メジャーリーグ選抜と、11月4日の明治神宮野球場での第一戦を皮切りに、全国12都市で16試合を戦った。
(静岡県・草薙球場では、17歳の沢村栄治が現役メジャーリーガーを相手に1失点に抑え、「スクールボーイ」と呼ばれた)
その後、1935年2月にアメリカ遠征を行った。
その際、最初の訪問地であるサンフランシスコで最初の対戦チームであるサンフランシスコ・シールズと対戦した。
シールズを率いていた監督は、フランク・オドールで、現役時代、「レフティ・オドール」の愛称で知られており、1931年と1934年にメジャーリーグ選抜チームの一員として2回、訪日していた。
オドールは大日本東京野球倶楽部のマネージャーをしていた鈴木惣太郎に、
「チーム名が長くてわかりにくい、ニックネームをつけたらどうだ」と提案した。
その時、米国で人気があり、オドール自らも現役時代に在籍した「ニューヨーク・ジャイアンツ」にちなんで、「ジャイアンツ」というチーム名を提案された。
鈴木はそれを採用し、米国遠征中、"Tokyo Giants(東京ジャイアンツ)"として戦うことになった。
そして米国から帰国後、1936年に日本初の職業野球リーグが発足する際、「東京巨人軍」で参加することとなった。
⑨巨人軍の経営は創設から25年間赤字だった
大日本東京野球倶楽部は、1944年11月10日、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い球団を解散、休眠会社となった。
日本国の敗戦後、1945年11月、プロ野球の再開に伴い、「東京巨人軍」の運営会社として再開する。
1946年8月9日、読売新聞社の運営となり、1947年に読売新聞社が全面的に株式を買収。
同年2月15日、「読売興業株式会社」へ商号(社名)を変更し、巨人軍は同社野球部となる。
1950年1月25日、巨人軍(野球部)を分社化し「株式会社読売巨人軍」を設立する。
読売新聞の渡辺恒雄会長が語ったところによれば、「巨人軍の経営は創設から25年間、赤字だった」という。
だが、これにはカラクリがある。
かつて、日本のプロ野球チームは親会社の「宣伝広告媒体」といわれてきた。
1954年(昭和29年)の国税庁通達により、プロ野球チームを保有する会社は、子会社である球団への赤字補填が「広告宣伝費」として損金処理ができることになった。
企業活動において本来なら、子会社の赤字補填のような資金の移動は「贈与」と見なされ、課税対象となるが、この通達により、プロ野球チームを保有する会社は球団事業で出した赤字は、本業の利益に対する税負担の軽減へすることができたのである。
ジャイアンツもこの恩恵を最大限に受けて発展してきたといえる。