【訃報】巨人・木戸美模さん/「二刀流」鮮烈デビューと負傷事件

読売ジャイアンツで活躍した投手・木戸美模(よしのり)さんが昨年2023年12月25日、虚血性心不全のため、神奈川県相模原市の自宅で逝去されていたことが公表された。
86歳であった。

僕がプロ野球を観るようになった1979年には木戸さんは巨人の投手コーチを務めていたので選手名鑑でお名前を拝見するだけであったが、その後、二軍に移り、投手コーチとして斎藤雅樹などの投手を育成した。

それ以前はスカウトとしても、左腕の高橋一三の獲得に尽力した。
高橋はV9時代の左のエースとして20勝を2回、マークし、その後、日本ハムに移籍したが、通算167勝を挙げた。

木戸さんは1998年に巨人を退団したが、投手として入団してから巨人に40年超も在籍したことになる。

木戸美模さんの野球人生を振り返ってみよう。

木戸美模、兵庫の「無名」の高卒投手が巨人へ、ジャイアント馬場と同期入団

木戸美模さんは1937年、兵庫県加古川市に生まれた。
兵庫農業短期大学附属高等学校(現・兵庫県立農業高等学校)の野球部に入り、3年生の夏はエースを務めたが、兵庫県大会の2回戦で同じ兵庫の強豪・滝川高校に敗退した(滝川は県大会優勝で甲子園に出場)。
しかし、兵庫県立兵庫工業高校野球部の監督で、滝川高校・巨人OBで戦前に投手として活躍した前川八郎らが推薦し、1955年に読売ジャイアンツへ入団した。
同期入団にはハワイ出身のエンディ宮本こと宮本敏男、捕手の森昌彦(のちの祇晶)、投手の国松彰(同志社大学、のちに野手転向)、馬場正平(ジャイアント馬場)らがいた。
身長209cmの馬場と比べて、木戸は170cm弱と投手としては小柄だった。
背番号は「56」に決まった。

迎えた1955年のシーズン、巨人は水原円裕(茂)監督の下、2年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、ベテランの別所毅彦、大友工、中尾硯志という分厚い投手層に阻まれ、同期入団では国松が一軍で登板したものの、木戸に一軍での登板機会はなかった。
木戸が2年目を迎えた1956年、日本プロ野球初のパーフェクトゲームを達成した巨人OBの大投手、藤本英雄が二軍監督に就任すると、木戸を高く評価した。
4月26日、静岡草薙球場での国鉄スワローズ戦で木戸は2番手として登板、一軍公式戦に初登板を果たすと、2回を被安打1、無失点に抑えた。
その3日後、天皇誕生日にあたる4月29日の川崎球場での大洋ホエールズ戦のダブルヘッダー第2試合で先発投手として抜擢されたのである。

巨人はここまで18勝9敗、勝率.667と勝ち越しながら、セ・リーグでは中日ドラゴンズ、大阪タイガースと三つ巴の争いに入っていた。
前夜、水原監督が二軍監督の藤本英雄と相談し、木戸の先発起用を決めた。

大洋の先発は秋山登。明治大学から入団した大卒1年目の右腕で、開幕2戦目に先発を任されており、すでに4勝を挙げていた(秋山はこの年、新人ながら58試合に登板、防御率2.39、26完投、7完封、25勝25敗を挙げ、セ・リーグの新人王となる)。

巨人は打倒・秋山のために1番から4番まで左打者をずらりと並べて挑んだ。しかし、投打のカギを握ったのは木戸であった。

木戸美模、プロ初先発で自ら初本塁打、初完封勝利

木戸はまず大洋打線を初回、2回と無失点に抑えると、2回表2死、二塁に平井三郎を置いて右打席に立った。
すると、秋山の左を抜く当たりを放った。
投手の木戸がプロ初打席でいきなり打点つきの安打を挙げ、巨人が1点を先制した。

木戸はこれで気をよくしたのか、シンカー、シュート、スライダーを織り交ぜながら、大洋打線を面白いように手玉に取った。
5回表、木戸に2打席目が廻ってくると、今度は0ボール2ストライクと追い込まれながら、秋山の投球を強振し、打球はレフトスタンドへと飛んで行った。
木戸がプロ初本塁打で2点目のホームを踏み、自らを援護した。

木戸はその後もすいすいと大洋打線を打ち取り、8回までスコアボードに「0」を並べたばかりか、打つほうでも3打席目もヒットで猛打賞、さらに4打席目もヒットと、4打数4安打。
木戸はプロ初打席から4打席連続安打という離れ業を演じたのである。
木戸は2-0のまま迎えた9回のマウンドへ向かうと、完封勝利まであと一人となったところで大洋の4番打者・小林章良を迎えた。
小林は兵庫県神戸市出身、旧制・滝川中学の野球部出身であり、その後身にあたる滝川高校は木戸が高校3年生の夏に、甲子園の夢を断たれた相手であったが、その仕返しとばかり、小林を打ち取りゲームセット。
木戸は9回を投げ切り、4奪三振、シングルヒットのみの被安打3、四球2、三塁も踏ませず無失点という文句のつけようのない内容だった。
巨人は木戸の投打にわたる活躍でこのシーズン初めて、リーグ単独首位に立った。

試合後、木戸は記者に囲まれると、
「うれしいですよ。でも、9回に(大洋3番の)青田(昇)さんが出てきたときは困った。両親が喜んでくれるだろうなぁ」
と喜びを隠しきれない様子であった。

「ジャジャ馬」とあだ名された青田昇は戦前1942年から1943年までと戦後は1948年から1952年まで巨人でプレーしていたが、1953年に洋松ロビンス(のちの大洋ホエールズ)に移籍していた。青田も滝川中学野球部のOBで、この時点で本塁打王3度を獲得しており、郷土・兵庫が生んだスターである(この年も4度目の本塁打王を獲得した)。

プロ野球の歴史で、「プロ初完投勝利」と「プロ初本塁打」を同じ試合で達成したのはこの年、4月11日、阪急ブレーブスの新人・米田哲也が対高橋ユニオンズ戦(西宮球場)に先発し(登板2試合目)、第2打席で投手9人目、高卒新人2人目となる満塁本塁打を放ち、完投勝利でプロ初勝利を挙げていたが、その後、木戸を含め、阪神の西純矢が2022年5月18日の対ヤクルト戦(神宮球場)で記録するまで8人しかいない希少な記録である(しかも、西は2021年5月19日にすでにプロ初勝利を挙げていた)。

なお、「プロ初完封勝利」の試合でプロ初本塁打を記録した投手は1987年7月8日、巨人対広島(札幌市円山球場)で巨人の高卒2年目の桑田真澄がいるが、桑田はこの登板の前、6月5日の阪神戦(後楽園球場)ですでにプロ初勝利を初完投で記録していた。

さらに、5月3日、本拠地・後楽園球場で木戸は先発した。
この時は広島打線につかまり、3回までに4点を失って早々にノックアウトを食らったが、5月12日、阪神甲子園球場で行われた初めてのナイトゲームでも1点ビハインドの8回に3番手としてマウンドに上がっている。
エースの一人である大友工を故障で欠いていた巨人において、木戸に対する水原監督の信頼はゆるぎないものになっていた。

しかし、「好事魔多し」とはよく言ったものだ。
衝撃の初完封勝利デビューから1か月も経たないうちに、木戸を”悲劇”が襲った。

1956年5月20日、広島での巨人戦で観客の怒りが爆発、木戸が負傷

5月下旬、巨人は広島に遠征し、木戸も帯同した。
5月19日、広島県総合グラウンドで行われた広島カープとのカード初戦は、巨人が14-1と大勝した。
翌5月20日はダブルヘッダー2試合が予定された。
第1試合は巨人の先発・義原武敏が序盤に降板したが、すぐさま攻撃陣が逆転し、そのまま5-3で逃げ切った。
広島はこれで3連敗となった。

第2試合は、第1試合で先発した義原武敏が再び先発すると、今度は6回まで広島打線を被安打2、無失点と見違える投球をした。
一方、広島先発の太田垣喜夫(のちの備前喜夫)が6回まで、3番・宮本敏男のソロホームラン1発のみで1失点で粘っていたが、7回についに巨人打線につかまった。
太田垣自らが暴投でこの回、4点目を失ったが、その際、ホームのベースカバーに入ろうとした太田垣が三塁走者の加倉井実と接触し、退場となってしまった。巨人が5-0となったところで、広島はやむなく2番手の松山昇が慌ててマウンドに上がった。

松山昇は1954年に18勝を挙げ、前年1955年も4月にあわやノーヒットノーランの快投を見せるなど、10勝を挙げていたが、肩と肘に故障を抱えるようになっており、この年は開幕から精細を欠いていた。

巨人は8回もマウンドに上がった松山を攻めると、与那嶺要の4号2ランホームランで7-0と引き離し、さらに2死から広島のショート・恵川康太郎が痛恨のエラーを犯すと、そこから4本の長短打でこの回、一挙4点を奪い、10-0と大量リードした。

広島は8回からマウンドに上がった木戸に対し、9回裏に3番・平山智がソロホームランを放ち、一矢を報いたものの、最後は痛恨のエラーを犯した恵川があえなく凡退し、ゲームセット。
巨人は10-1で勝利し、広島は4連敗となった。

こうなると、広島の熱狂的な観客が黙っていなかった。
巨人のナインがダグアウトに引き揚げるのを見計らって、三塁側の観客席から多数の物が投げ込まれた。中にはジュース瓶、サイダー瓶が十数本、雨あられと投げ込まれたのである。

その1本がなんと、ピッチャーマウンドから降りてきた木戸の右ひざを直撃した。
木戸は広島市内の外科医院で手当てを受ける羽目となった。
木戸の右ひざは深さ1センチ、幅4センチほどの挫傷となって、全治10か日と診断されたのである。
当たり所が悪ければ、選手生命はおろか、さらに恐ろしい事故につながっていたかもしれなかった。

さらに、巨人の水原監督や選手の数名が宿舎に引き揚げるバスに徒歩で向かう途中、何者かによって蹴るなどの暴行を受けた。

カープの不甲斐ない敗戦の矛先が巨人の水原監督・選手たちに向けられたのである。

木戸負傷事件の波紋ーカープはセ・リーグ脱退の危機に

この「事件」を受けて、翌日の新聞には関係者のコメントが掲載された。

当の「被害者」である木戸本人は、

「当たった感じは割れた瓶が直接、飛んできたようで、そうだしたら傷つける目的がはっきりしているので、こんな恐ろしいことはない」

ただし、ビンは木戸の膝に当たって割れたという説もあり、真偽のほどは定かではない。

巨人の渡辺代表は、

「球団としては、選手の安全を脅かされるようなところではゲームをしたくない。今後、信用できる保証のない限り、広島でのゲームを拒否することもやむをえまい。
水原監督と協議したうえ、(セ・リーグの)鈴木会長と会見するが、正式に理事会の議題として提案する」

と態度を硬化させた。

自らも暴行を受けた水原監督は

「カープは郷土の球団で熱心なファンがいるが、こういうことをするファンは全部ではない。本当にベースボールを愛するファンの力で最近、自粛してただけに惜しまれる。
大友(工)投手が欠場しているので、投手不足の矢先に、木戸の負傷は戦力に大きな影響がある」

と言葉を選びながらも、不満をあらわにした。

一方、カープの川口球団代表は

「選手の退場の際、警備を厳重にする。飲み物もビンで販売せず、コップに注いで渡す方法を取りたい」

この後、警察、球団、後援会と協議がもたれ、実際に球場内での飲料はビンではなく、紙コップに移して提供されることになった。

カープの白石勝巳監督は広島出身で、一リーグ時代の1949年まで巨人でプレーしており、1950年、故郷に錦を語る形で新球団・広島に選手兼任監督で入団しており、古巣である巨人を慮りながら、

「木戸投手や巨人軍にはまことに気の毒です。
巨人が広島での試合を拒否するのは当然で、巨人ばかりでなく他球団に対してもこういうことをするようではカープは全く立つ瀬がなくなる。ファンの自粛を切に望む」

と言葉を絞り出すようにして、カープファンに自重を求めた。

カープ後援会の常任顧問である小川真澄氏も

「一部ファンの心ない行いからこういう事態を生んだことは全く申し訳ない。巨人軍の方には心からお詫びする。巨人軍が広島での試合を拒否する気持ちはわかりますが、こういうことは広島だけのことではなくセ・リーグ全体のことなので、連盟の方にお任せしたい」

と苦しい胸中を明かした。

この一件で、広島カープは窮地に追い込まれた。
川口球団代表は上京して巨人軍に赴き、フロントに陳謝したが、巨人はカープの開催権の返上、ペナントレースからの除外を訴えた。
広島選出の自民党・池田勇人代議士(のちの自民党総裁、総理大臣)まで仲裁に乗り出す事態となったが、巨人側は態度を硬化させたままだった。
セ・リーグは広島総合球場での試合開催を一時、中止するよう勧告した。
カープ球団フロントはセ・リーグからの脱退も覚悟していたという。

名乗り出た「犯人」たちがカープのピンチを救う

この騒動のさなか、事件から24日が経過したある日、カープの球団事務所に二人の男が出頭してきた。
「自分たちが投げたビンが当たったのかはわからないが、とにかくビンを投げた」と名乗り出たのである。

広島西警察が二人に事情聴取を行い、現場検証した結果、この二人が「犯人」だと特定する証拠に乏しいということになり、刑事事件とはしなかった。
一方、巨人側も「犯人」が名乗りでたこと、今後、球場の安全管理を徹底させるというならと、広島での公式戦開催を承諾した。

こうして、カープは窮地を脱することができた。
だが、この二人は、カープの後援会に所属する熱心なカープファンで、カープのピンチを救いたい一心で名乗り出た「無実」の人々だった。

しかし、この二人は生涯、公には真実を語ることはなかったという。
ことの真相を知っていたカープの球団関係者や選手たちは二人が別々に営む飲食店を頻繫に訪れるようになったという。せめてもの罪滅ぼしであったのだろう。


二人が80代で生涯を終えた後、1999年6月になって、広島の中国新聞がこの事件を掘り起こし、この二人が「替え玉」で出頭していたことが明らかにされた。
事件から43年を経過して、ようやく二人の名誉が回復したのである。

このエピソードは2014年5月、広島のローカル局でドラマ化された。

https://tower.jp/item/3666982/%E9%AF%89%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%BC


不慮の負傷を被った木戸だが、その1か月後には公式戦に復帰登板を果たした。

6月28日、甲府緑が丘球場で行われた大洋戦では6-6で迎えた延長10回にマウンドに上がり、大洋打線を無失点に抑え続け、ついに延長18回、サヨナラ勝ちを呼び込んでプロ2勝目を挙げた。

この年、木戸は3勝を挙げると、34歳のベテラン、別所毅彦が自身3度目の最多勝と2度目のシーズンMVPの活躍もあり、巨人はリーグ2連覇を達成した。
しかし、水原・三原脩の「巌流島の決闘」と称された巨人と西鉄ライオンズの日本シリーズでは木戸の登板の機会はなく、三原率いる西鉄が球団創設初の日本シリーズ制覇を果たした。
そのオフに木戸の背番号は「29」に変更になった。

1957年、木戸美模と藤田元司の2枚エースが大車輪の活躍で巨人のリーグ3連覇に貢献


翌1957年の巨人は、大ベテランの大友工と別所毅彦の2枚エースを故障で欠いて苦しい船出だったが、日本石油から入団した新人投手の藤田元司と木戸が開幕から先発と救援で大車輪の活躍を見せ、20歳の木戸は17勝7敗、26歳の藤田は17勝13敗という成績を残した。
この二人でチーム74勝のうちの約半分を稼いで、巨人はリーグ3連覇を果たした。
木戸は勝率.708でリーグ最高勝率のタイトルを獲得、防御率も2.36でリーグ6位に入ったが、20歳の木戸に新人王の資格はなく、26歳のオールドルーキーの藤田が新人王を受賞した。

3年連続となった西鉄ライオンズとの日本シリーズでも木戸は第1戦でリリーフ登板し、日本シリーズ初登板を無失点と抑えたが、チームは3試合連続で1点差負けを喫し、3連敗と後がなくなった。
迎えた大事な第4戦に木戸は先発を任されると、5回無失点と踏ん張り、0-0の引き分けに持ち込んだ。
第6戦では2-2で迎えた6回にマウンドに上がったが、西鉄打線につかまり3連打を浴びて、一死も取れず降板、後続が打たれて勝ち越しを許し、敗戦投手となり、巨人はシリーズ4連敗を喫した。

そして、木戸が投手としての輝きを見せたのはこの年だけだった。
オフには、神宮のスターで2歳年上の長嶋茂雄が入団し、寮では相部屋となった。
しかし、長嶋がゴールデンルーキーとして話題を呼んだ1958年、藤田が29勝を挙げてエースの座をゆるぎないものにした一方、木戸は前年の登板過多がたたったのか、腰痛で調子を崩して二軍落ちするなどわずか1勝に留まった。
1959年は5勝を挙げたものの、1960年、1961年は勝ち星を挙げることができず、1961年オフに通算131試合登板、26勝17敗、防御率3.26という成績を残し、現役を引退した。
プロ初先発で挙げた初勝利が唯一の完封勝利だった。

1957年に木戸とともにエースとして活躍した藤田元司は現役引退後、巨人の監督に就任、4度のリーグ優勝と2度の日本一に恵まれたが、一方の木戸は川上哲治監督、長嶋茂雄監督、藤田監督の下で10年以上、一軍・二軍の投手コーチとして仕え、その合間に三軍監督、寮長、スカウトなどで巨人を側面から支え続けた。

木戸がスカウトした「広島県人」の高橋一三が巨人V9の礎に

木戸は引退後、30年以上にもわたり巨人を支えてきたが、中でも投手の育成、スカウトでの貢献は大きかった。

とりわけスカウト時代には皮肉にも中国地方を担当することとなり、1963年に広島の北川工業のエースだった高橋一三に目をつけ、近鉄バファローズとの争奪戦の末、入団させると、高橋一三は2度のシーズン20勝、2度の沢村賞を獲得するなど、堀内恒夫と共にV9を支えるエースとして活躍した。

木戸は広島では思わぬ事故の「被害者」となったが、高橋一三という「広島県人」をスカウトしてV9の礎となったのだから、木戸にとって広島という土地は悪い思い出ばかりでもなかったようだ。

木戸美模さん、安らかにお眠りください。




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