NPB公式戦で10点差逆転勝利した4チーム

2024年5月11日、横浜スタジアムで行われた横浜DeNAベイスターズ対阪神タイガース戦は、DeNAが最大7点差をひっくり返し、11-9で勝利を収めた。

阪神はDeNA先発の中川颯を捉え、3回に1番の近本光司の自身初のグランドスラムとなる今季6号の満塁ホームランで4回表終了までに9-2とリードし、一方的な展開かと思われた。
だが、5回に阪神先発の伊藤将司が崩れ、DeNAに9-7と追い上げられると、DeNAは8回裏、阪神4番手の岩崎優を攻めて、1番・蝦名達夫の2年ぶりとなるホームランで9-9の同点に追いつき、さらに3番・筒香嘉智の今季2号ソロホームランでついに勝ち越し、続く4番の牧秀悟の今季5号ソロホームランで11-9と引き離し、そのまま逃げ切った。

DeNAが7点差以上を逆転して勝利したのは2019年9月19日の広島カープ戦以来で、5年ぶり通算11度目となった。
NPBの公式戦で、7点差以上の逆転勝ちの回数はオリックス・バファローズ(前身の阪急を含む)の8度を抑え、DeNAが両リーグ最多である。
また、通算11度のうち、対阪神戦では1975年7月26日の8点差、1984年5月27日の7点差、2013年8月20日の7点差に次いで4度目となり、対戦チーム別では最も多い。

なお、NPBの長い歴史で、最大の得点差を逆転したのは10点差で、これまで4つの試合で起きている。

NPBの公式戦で10点差を逆転して勝利したチームを振り返ってみよう。

1949年10月2日 大陽ロビンス

NPBで最初に10点差をひっくり返して勝利したのは、1949年の大陽ロビンスである。

1949年10月2日、京都・衣笠球場で行われた大陽ロビンス対大映スターズ戦のダブルヘッダー第2試合目で、大映が3回までに10-0と大量リードしていたが、大陽が7回、3番の藤井勇の15号満塁ホームラン、8回には同じく藤井のタイムリー二塁打で10-10に追いつき、9回裏、2死満塁の場面から1番・田川豊が死球を受けて11-10でサヨナラ勝ちを収めた。
殊勲の藤井勇は3打数3安打、2四球、7打点の大暴れであった。

劇的な勝利を収めた大陽であったが、リーグ8位で最下位となっている。

1951年5月19日 松竹ロビンス(旧・大陽ロビンス)

1951年5月19日、大分県立春日浦球場で松竹ロビンス対大洋ホエールズ戦で、後攻の大洋が4回裏までに8-0とリードし、6回裏を終わって12-2とリードした。
しかし、松竹が7回が小鶴誠に8号3ランホームランで追撃すると、8回には再び小鶴が2打席連続となる9号3ランホームランなどで10-12で追い上げ、9回表2死一、二塁から松竹3番手投手の小林恒夫がそのまま打席に立ち、センターオーバーの3ランホームランとなるプロ入り初アーチを放ち、自ら9回裏を抑えて、松竹の10点差逆転勝利となった。

松竹ロビンスは、職業野球がセントラル、パシフィックの2リーグに分立する1950年に、大陽ロビンスから改称しているので、NPB史上初の「10点差逆転勝利」も、2度目も同じチームが達成していることになる。

松竹は前年1950年はセントラル・リーグ初代優勝チームとなったが(日本シリーズは敗退)、このシーズンは4位に沈んでいる。

また、この試合で大逆転勝利の殊勲者となった松竹の小鶴誠は1949年には大映スターズに所属しており、一方、大逆転負けを食らった大洋には、大陽の最初の10点差逆転勝利で殊勲を挙げた藤井勇がおり、この二人は10点差逆転敗戦と10点差敗戦勝利を両方、経験した選手である。

なお、この時、敗れた大洋ホエールズは1953年1月に、松竹ロビンスを対等合併し、チーム名が大洋松竹ロビンス(洋松ロビンス)となったため、1936年に大東京軍として始まった松竹ロビンスは「消滅球団」となり、その歴史は1952年シーズンを以って途絶えている。

1997年8月24日 近鉄バファローズ

1997年8月24日、大阪ドームで行われた近鉄バファローズ対千葉ロッテマリーンズ戦で、ロッテが1回、近鉄の先発・佐野重樹(現・佐野慈樹)を攻め、一挙5点を奪うと、2回にも近鉄2番手の南真一郎、3番手の柴田佳主也から5点を奪って、10-0と大量リードした。
この時点でバファローズ応援団は応援をボイコットしてしまった。

しかし、近鉄はここから反撃を開始し、3回に1番の村上嵩幸のソロホームラン、4回に4番のフィル・クラークのソロホームランで2-10、5回には2番の水口栄二のタイムリー安打、クラークの犠牲フライ、5番・鈴木貴久のタイムリー安打で一挙、4点を奪うと6-10と、怒涛の追い上げを見せた。
7回にも途中出場の大石大二郎のタイムリー安打などで3点を奪い、ついに9-10と1点差に迫った。
ここでバファローズ応援団も8回から応援を再開した。

近鉄は9回裏、1死から鈴木貴久がライトオーバーの二塁打を放つと、代走・武藤孝司が三盗を試み、これがロッテ捕手の吉鶴憲治の悪送球(記録はエラー)を誘って、武藤が一気に本塁に生還、ついに10−10と追いつき、試合は延長戦へ。

そして延長12回裏、近鉄はロッテ4番手の吉田篤史を攻めて2死から代打・山本和範が四球を選ぶと、続く水口がこの日、3本目となる安打を放ってチャンスを広げる。
ロッテベンチは3番のタフィ・ローズを敬遠四球で歩かせて2死満塁とし、クラークとの勝負を選択したが、クラークがこの日、3安打目となるセンターオーバーのタイムリー安打を放ち、ついにサヨナラ勝ち。
近鉄は野手17人を使い切っており、サヨナラのホームを踏んだのは、山本の代走として起用された投手の入来智だった。
勝利投手は8回からマウンドに上がり、5回を投げて無失点に抑えたリリーフエースの赤堀元之。
NPBにおける10点差逆転劇は史上3度目だが、0-10からの大逆転は1949年の大陽ロビンス以来、2度目であった。

ロッテはホームランなしで2回までに10得点を奪い、計16安打を放ったにもかかわらず、3回から12回まで10イニング連続で無得点に終わり、先発の園川一美を5回まで引っ張ったことで(5回、被安打8、6失点)、近鉄に世紀の大逆転を許してしまった。

なお、このときのロッテの監督は就任1年目の近藤昭仁(横浜ベイスターズ初代監督)で、この1997年シーズンは最下位に沈み、翌1998年もNPB史上ワーストとなる18連敗を喫し、2年連続最下位の責任を取って辞任している。

一方の近鉄バファローズはこの年は3位、2001年にはチーム初のパシフィック・リーグ制覇を果たしたが、2004年オフにオリックス・ブルーウェーブ(当時)との吸収合併により「消滅球団」となっている。

2017年7月26日   東京ヤクルトスワローズ

2017年7月26日、神宮球場で行われた東京ヤクルトスワローズ対中日ドラゴンズ戦。ヤクルトは7月に入り、14連敗を喫し、チーム状態は最悪であったが、前日は同じカードの中日戦で9-8でサヨナラ勝ちを収めていた。

中日はヤクルト先発・星知弥を攻め、5回までに10点を奪うと、一方のヤクルト打線は中日の先発・大野雄大に3安打に抑えられ、中日が6回を終わって10-0と大量リード。

しかし、ヤクルト打線は7回裏、大野を攻めて2死から代打・中村悠平にレフトオーバーの2ランホームランが飛び出し、2-10とすると、8回裏も続投した大野から3番のウラディミール・バレンティンがレフトに16号2ランホームランを放ち、そこから打者一巡で4番の山田哲人のタイムリー安打でこの回8点目を奪って、ついに10-10の同点に追いついた。
中日はこの回、6点リードとなったところで先発の大野をあきらめ、福谷浩司、岩瀬仁紀、又吉克樹と投入したが、ヤクルト打線の流れを止められずこの回、ヤクルトは14人で8安打を集中する怒涛の攻撃を見せた。

そして、ヤクルトは延長10回裏一死、この年、ロッテから移籍した代打・大松尚逸が中日5番手の伊藤準規の初球のストレートをフルスイングすると、打球はヤクルトファンが待つライトスタンドへ。
大松のシーズン2号は劇的なサヨナラホームランとなり、11-10と勝利した。

大松は5月9日の広島カープ戦でも代打で登場して、移籍1号をサヨナラホームランで飾っており、ヤクルトに移籍後、放ったホームランは2本連続でサヨナラホームランという快挙を成し遂げた。

劇的な勝利を収めたヤクルトだったが、結局、このシーズンは45勝にとどまり、チーム史上ワーストとなる96敗を喫し、真中満監督は退任している。




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