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閉じ込め続けた感情

何年も、声を失ったような感覚を無視し続けていることに気がついてはいた。

それは2011年に日本を離れ、この国に暮らし始めてから始まったのか、それよりも前、娘が生まれてから全ての時間を自分のためだけに使うことができなくなった頃からなのか、本当はもっともっと昔、昼休みにタヌキが出て、大騒ぎしたことを書くのが好きな小学生だったはずなのに、いつの間にか優等生的な文章を書くことを得意とするようになった頃に始まっていたのか、自分でも分からない。

自然に恵まれたこの土地に暮らし、ベッドの中で目が覚める前から意識の外で聞こえる鳥の声や、部屋にいても漂ってくる甘い花の香りや、気づけば18になった娘が見せる笑顔に感じるしあわせは確かなものだ。でもそれとは違うところで、個人としての自分の感情を置き去りにして、まるで無いもののように、面倒くさいものとして見てみないふりをしてきたことも否定できない。

書くことは自分と、人生と向き合うことだ。そんなこと、本当は分かっている。だからこそ仕事にしたい、でもできないという葛藤を抱えたまま、学校を卒業した後は挑戦すらせずに、不本意とは言えないまでもそれほど情熱を持てるとも言えない職業を選んできた。けれど、これ以外には選択肢がないような状況で文章を書くことを仕事にして、もうすぐ1年。何を書きたいのか、書くことで何がしたいのか自分に問うことから逃げることができなくなってきた。自分の感情にフタをしたまま、書く仕事ができるはずがないのだ。

どれだけの感情を吐き出すことなく、身体の奥に閉じ込めたままにしてきたのだろう。小学生の頃から自分を騙してきたのだとしたら。重ねてきた時間を否定したくなるかも知れない。何か大きな変化を招いてしまうのではないかという予感もある。こわい。でももう向き合うしかないのだ。だってそうしないことにはもう、進むことも戻ることもできそうにないのだから。



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