016.1982年の新入社員

大学を卒業して就職したのは、1982年(昭和57年)春のことでした。配属されたのは社長室秘書課で、取締役社長室長を筆頭に、男性秘書が数名がいる部署に、同期の新入女子社員と私のふたりが加わることになりました。

男女雇用機会均等法が制定されるのは1985年、施行されるのは1986年で、それ以前の女子社員の多くは「男性社員のお嫁さん候補」並びに「お茶出し・コピー取り要員」でした。私たち新入社員は全員、四年制大学を卒業して入社しましたが、入社式の当日に人事部長から「女子社員の給与は短大卒並みとします」と言われて驚いたものでした。

各界の要人とのアポイントメントを取る仕事などは、男性秘書課員の仕事で、私たち新入女子社員は、小間使いのような雑用が主な職務でした。

社長室秘書課という部署には、来客も多く、社長や役員を交えた社内会議も数多く開かれましたから、応接室や会議室へのお茶出しや片付け、洗い物、お弁当の手配、社内外への書類配り、叙勲・婚礼・葬儀の際の電報や贈答品の手配、お中元・お歳暮の様々な手続きなど細々とした仕事が主でした。

応接室の大理石の煙草入れへ煙草を補充したり、茶葉や湯飲み茶わんを洗う洗剤の補充などのメンテナンス作業全般はもちろん、社長が服用する薬を1回分ずつ小袋に分けること、会食がない時の社長の昼食の手配、社長が喪服に着替えてお通夜や葬儀に出かけた後にソファの背に置きっぱなしになっているスーツをハンガーにかけることなど、まるで世話女房のようなことまで業務だと見なされていました。

社長が外出や夜の会合に出席する際には、社長車の運転手さんに連絡して車寄せに車を回してもらい、男性秘書が今後の予定についてなど社長に報告しながら歩いて行くすぐ後ろを、社長の鞄を両手でうやうやしく抱えてついていくというのも私の役割で、最後に90度に最敬礼して社長を送り出していました。

社長が社内にいる時は、我々秘書課員は皆緊張していましたから、社長車が見えなくなると、男性秘書と共にホッとしたものでした。それでも社長車から時々自動車電話がかかってきました。男性秘書が言うには、私たちが入社する数年前までは自動車電話などなかったので、送り出してしまえば安心できたのに、今は便利な自動車電話が登場したおかげで、秘書としては不便で仕方ないと嘆いていました。

それでも飛行機に乗ってしまえば電話はかかってこないので、ニューヨーク出張などの時は、少なくとも半日は心底のびのびできると喜んでいたものでした。しかしそれも1986年には、航空機電話サービスが登場することになって秘書の平穏時間はどんどん減って行きました。

このような日々の中、社長宛に届いた書類をすべて開封し、出欠席の返事が必要なもの、重要と思われる手紙類、業界紙、その他などに分類し、それを社長室長の元へお持ちするというのは、自分の業務の中で唯一なかなか秘書らしいと私が感じていた職務でした。社長室長は、私が分類した書類すべてに目を通し、書類の順番を並べ替えたり、いらないものを破棄したり、必要なところに赤鉛筆で印をつけたりして、社長室の決裁箱に入れるように再び私に手渡してくれました。こうして私自身も職務の重要度を少しずつ覚えていったものでした。


社長室には機密情報がたくさんありました。その中でも契約書の作成は重要な業務のひとつでした。といっても実際に文面を考案するのは担当役員の仕事ですが、最終文案が上がってくると社長室長が目を通して、必要があれば修正を加えます。ゴーサインが出ると、その下書きを文書課に持って行って、何日の何時までに仕上げてくださいとお願いするのは、私の役目でした。でもほとんどの場合大至急という指示でした。今思い返しても、いわば使いっ走りのこの仕事が私は嫌で嫌でたまりませんでした。

文書課には五名のベテランの文書課員がいました。全員が常にデスク代わりの和文タイプライターの前に座って作業していました。それはキッチンのレンジ台程度の大きさの枠の中に、裏返った状態の活字がぎっしりと並んでいて、その上を用紙を装着させた機械を動かしながら、必要な活字を見つけてはハンドルを操作して活字をつまみ上げ、用紙にパチンと打ちつけるというものでした。そのやり方をうまく説明するだけの文章力が私にはありませんが、とにかく神業としか言いようのない複雑な操作でした。Youtubeはこちらです

活字は、ひらがな、カタカナはもちろん、広く使われる漢字が様々な大きさで準備されています。頻用されなくても必要な文字は予備として傍に置いてあり、必要な時に入れ替えて使うのでした。文書課員は常に真剣な面持ちで、カシャン、カシャン、と音を立てながら、まるで機織をする鶴のように優雅に、そして正確に手を動かしていました。私などには、その活字の位置を覚えるだけでも何ヶ月もかかってしまいそうでした。

大学の同級生の中に、就職するにあたって和文タイプライターの学校に通うことにしたという子がいました。資格があると就職に有利だというのです。彼女は資格を活かして法律事務所に就職しました。腕に職をつければ、いわゆるお茶汲み・コピー取りをしなくて済むのだと、今更ながらに思ったものでした。目の前の文書課員は、皆そのような先見の明があった方々でした。しかしただ通り一遍の技術を習得すれば良いというものではなく、実務上プロフェショナルには高度な技術が求められました。

当時、私が勤めていた会社では5枚複写の契約書が一般的でした。これは5枚の薄い和紙の間に、一枚置きに4枚のカーボン紙を挟み込み、その上から和文タイプで活字を打ち込むというものでした。この方法では、すべての活字を拾って打ちつける時の力加減を均一にしないと4枚目や5枚目の文字が読めなってしまいます。何百字、何千字もある文字を均一の力加減で打っていくというのはかなりの熟練が必要とされる技でした。

実際に、出来上がった契約書を取りに行って社長室長にお見せすると、「ほら、ここの部分がかすれていてよく読めないからやり直してもらいなさい」などと5枚目の箇所を指差して言われることがありました。そういう場合には、すぐさま文書課へ走って行ってやり直しをお願いするわけですが、私よりもずっとベテランの、しかも高度な技術を持っている大先輩にダメ出しをするようなことになるわけで、それは新入社員の私にとってはとても勇気のいることでした。

しかも、作業を中断してお願いするのは心苦しく、「ここの箇所がかすれておりますので…」などと説明する、私の声の方がかすれてしまう有様でした。日々全社から上がってくる大量の書類をたった5名で仕上げていくわけですから、本来は当然後回しということになるのですが、そこは社長室だからと無理やり割り込んでお願いするのも気が引けてなりませんでした。

ある時などは、そろそろ打ち上がった頃かしら、今日は5枚目まできれいに読めますようにと願いつつ文書課に入ると、下書きの文字が達筆すぎて読めないという理由で後回しにされていて、逆に「この文字はなんと読むのですか」とたずねられ、答えらず、社長室長に引き返してお伺いを立てると、「こんな文字も読めないのか」と叱られることもありました。年配の役員の方々の書く行書、草書のような文字は判読するのも一苦労でした。

私には読めないような達筆な文章は、社内の書類だけでなく、郵便物の宛先にも多く見られましたが、郵便屋さんは間違えることなく配達してくれていたので、やはり行書、草書は当時としては標準的な文字だったのでしょう。

ようやく行書で書かれた文字も教えていただき、文書課へ舞い戻り、なんとか午前中には必ずという約束でお願いした書類が、また5枚目がかすれて読めないなどというときには絶望的な気分になりました。午後一番には契約書調印式が控えているわけですから、何としても、お昼ご飯を食べずにでも、とにかく再び5枚の薄紙に4枚のカーボン紙を挟み、その紙一枚を頭から最後まですべて打ち直していただかないといけないのです。ただの伝書鳩のような私でしたが、軽い神経症になるほどの任務でした。

ところで、現在もメールの宛先TO: のすぐ下にあるCC: とはカーボンコピーの略称です。和文タイプだけでなく、英文タイプでも正副2枚以上の書類作成にはカーボン紙は必須でした。半世紀も前のカーボン紙の名称が、メール文化になっても残っているのはおもしろく感じます。

あの頃、私が右往左往と運んでいた契約書には、衛星放送を開始するために人工衛星を打ち上げる内容や、横浜のMM21、みなとみらい計画について書かれた内容など、当時の私にとっては近未来的な内容が書かれていました。東京タワーではなくて人工衛星からテレビ用の電波を出すなど、にわかには信じがたいプロジェクトでしたし、十分オフィス街としても観光地として賑わっている横浜をこれからどう改造するのか不思議でした。まさか国際会議場や観覧車ができるとは想像もしませんでした。

しかしそんな文書課に、ある日ワードプロセッサーという新製品が運び込まれることになりました。聞くところによると、ワードプロセッサーというのは「保存機能」がついているので、もし失敗したりしても頭から打ち直ししなくてもよく、先ほど保存した書類を呼び出して、それに修正をかければ良いということでした。これは画期的な機械だと思いました。文書課と社長室との往復が楽になる、それが私にとっての最初のワードプロセッサーの印象でした。

文書課の方々もどれほど仕事が楽になるだろうかと思いました。その頃の私には、そのワードプロセッサーが近い将来文書課員の仕事を奪ってしまうとは思いつきもしないことでした。専門学校に通って技術を習得し、さらに技を磨き、決して間違わないという高い緊張感の中で、今では熟練の域に達したその技術が、新しい機械の前では無用のものになっていくということに気づきませんでした。

コンピューター博物館のサイトによれば、日本で最初のワードプロセッサーは、1978年に売り出された東芝のJW−10という製品で、価格は630万円でした。それが2年後の1980年には価格が340万円と280万円となり、1982年には富士通が100万円を切る My OASYS を発表したとあります。私が入社したのは1982年でしたが、文書課に導入されたのは、机と一体型になっている大型のものでした。

そういえば、当時は公文書などはB5・B4などのB版を使うよう定められていました。そのため書類はB5、B4、A4、A3、それにレターサイズという主に米国で使われるサイズがあって、コピー機の用紙も常に5種類を補充していました。

用紙のサイズでA版が主流になっていくのは80年代の中頃のことでした。「行政文書の用紙規格のA版化に係る実施方針について」が出されたのは1993年(平成5年)のことで、それほど大昔のことではありません。最も文書の横書き化やA4化が遅かったとされる裁判所は2001年(平成13年)でした。

また、入社当時には、大きなFAXの隣にはテレックスが置いてあり、ガチャガチャと音を立てながら通信文を次々に送り出していました。先輩社員によれば、つい数年前まではテレックスしかなかったので、テレタイプを打つことのできる文書課員にいちいちお願いしなければならなかったけれど、FAXは紙をセットしてFAX番号を押すだけなので、誰でも操作することができてとても便利になったということでした。

FAXのスイッチを押すと、最初にピーヒョロヒョロという接続音が聞こえてきました。当時はA4を1枚を送るのに、おおよそ1分くらいかかりました。それでもたった1分で、裏に「済」というハンコが押されて用紙が機械から出て来るというのは画期的でした。同僚が機械に飛び込む真似をして、「私もこの中に飛び込んでニューヨークにひとっ飛びしたい」と言ったら、周りの人に「背中に「済」のハンコが押されるだけで、そのまま戻ってきちゃうよ」と笑われていました。


新入社員当時の仕事で忘れられないのは、電報打ちでした。春や秋の叙勲の時は、新聞に目を凝らして顧客の名前を見つけ出してお祝い電報を送ったり、顧客のご子息ご令嬢の結婚式にもお祝い電報を打ったものでした。もちろん弔電もです。

私が小さな子どもの頃は、「チチキトク スグカエレ」「サクラサク」「オヤジバンザイ カネオクレ」などという文面が日常生活に溢れていたようでしたが、次第に電報は電話に取って替わられていました。ですから私自身は電報を打ったという経験はなく、就職して初めて電報局に電話をかけました。

前回、小学3年生の時に九州に行って父方の祖母の言っていることがさっぱりわからなくて会話が成り立たなかったということを書きましたが(015.着せ替え人形の夏休み)、1980年代の東京にも「ひ」と「し」の区別のつかない江戸弁の人がまだまだ大勢いました。

ある日、電報の最後に「秘書課一同とお願いします」と言ったら、「ししょかの『し』は『しんぶんし』の『し』ですか、それとも『しこうき』の『し』ですか?」と聞かれて、「飛行機のひです」と答えると、「『しこうき』の『し』ですね」と復唱され、笑いをこらえながら電話をしたこともありました。他にも、電話で「いえいえ、『しらき』じゃなくて『し・ら・き』。タイラにキと書いて『し・ら・き』」なんて会話もありました。平木さんという人名漢字の説明でした。

新入社員の頃は、上司に向かって「先生」と呼びかけてしまったり、財界のお偉方からかかってきた電話を「少々お待ちくださいませ」と言って緊張のあまり切ってしまったり、外国人からの英語の電話にしどろもどろになって横から助けてもらったり、同僚とおしゃべりしていて「ここは学校じゃないんだ」と叱られたりもしました。帰り際に「家に帰ったら電話するね」と言ったら、上司に「これ以上まだしゃべることがあるとは信じられん」と呆れられたこともありました。

後年、自分が管理職となり、多くのスタッフを抱える身になって「今の若い者は」とつい口に出そうになった時に、新入社員だった頃の自分を思い出すと、反対にみんなよくやっているなと思い直すこともしばしばでした。


1982年がどのような年だったかというと、4月にそれまでの500円札に代わって500円玉が登場し、6月に東北新幹線が、11月に上越新幹線が、大宮を起点にそれぞれ盛岡・新潟まで開通しました。10月にはソニーが世界初CDプレーヤーを168,000円で発売し、NECが「PC-9801」を298,000円で発売しました。「笑っていいとも」の放送が始まったのはこの年の10月4日でした。この番組がその後32年間に渡って8054回続き、ギネス認定されるとは誰も想像もしていませんでした。11月には鈴木善幸に代わって中曽根康弘が総理大臣となりました。

映画では「蒲田行進曲」「ランボー」「E.T.」が大ヒットしました。レコード大賞は細川たかしの「北酒場」が受賞しました。この年の紅白歌合戦の視聴率は69.9%で、13年ぶりに70%を割り込んだということが話題になりました。アメリカではマイケル・ジャクソンのアルバム「Thriller(スリラー)」が12月に発売され、このアルバムは6,500万枚を売り上げて「史上最も売れたアルバム」となり、こちらも2012年にギネス記録を樹立しました。

1982年、次々に新製品が登場し日々便利になって行く毎日の中で、心のどこかで一抹の不安を抱えながらも、それでも「便利さ」を享受しながら、私は新入社員として社会に踏み出していきました。


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