269.シャモニーの年越し

1985年から1986年にかけて、私はフランスのシャモニーで年越しをしました。初めて外国で迎えたお正月でした。

子どもの頃からフランスに憧れていた私は、いつかフランスに行ってみたい、住んでみたいと思っていました。成人式の振袖の代わりにフランス旅行に行かせてもらい、また新卒で就職した会社に勤務中、夜間語学学校に通ってフランス語を学び、お給料の半分を貯金に当て、1985年の夏から一年間フランスの地方都市に暮らしました。

会社の同僚のK子が、出発前から必ず遊びに行くねと言ってくれていたのですが、お正月休みを利用してシャモニーにスキーに行かないかと手紙をくれました。彼女は学生時代スキー部で一級の腕前を持っていました。

シャモニーは、スイス・イタリア国境に程近いヨーロッパアルプスの最高峰モンブラン山群の麓にあるフランスの町です。1924年(大正13年)今からちょうど100年前に第一回冬季オリンピックが行われたことでも知られており、スキーリゾートとして外国からも多くの観光客を集めていました。

手紙には、同じスキー部で一緒だったK君とY君にフランス行きの話をしたら2人も是非一緒に行きたいというので一緒に行ってもいいか?と書かれていました。K君もY君もスキーの準指導員の資格を持っているそうで、かねてから一度アルプスをスキーで滑り降りるが夢だったそうです。

仲間が増えるのは大歓迎だとすぐに返事をしました。K君には東京で会ったことがありましたが、Y君には会ったことがありませんでした。けれども、あの2人の仲間ならきっと愉快な人物に違いないと思いました。

問題があるとすれば、それは私自身のスキーの実力でした。私は学生時代にゼミの先生や仲間と一緒に初めてスキーに行った時には、雪の降りしきる中を貸しスキーを担ぎながら、こんな苦行のどこが楽しいのかと思ったほどの運動音痴でした。その頃はスキー板をハの字にして滑るボーゲンでよろよろと降りてこられるといった程度でした。

会社の入ってからK子にスキーのどこが楽しいかわからないと言うと、それなら私が教えてあげるといって、週末スキー場でK子の個人レッスンを受け、膝をつけて滑るパラレル滑走がようやくできるようになりましたが、初級者もいいところでした。果たしてシャモニーでスキーなどできるのか心配でした。K子によれば私がついているから大丈夫、なんとかなるということでした。

K子たち3人は、JALPAKのツアーに参加して来ることになりました。記録がないためJALPAKの当時の正確な料金を確認することはできないのですが、年末年始の航空料金がピークの時期でしたから、おそらく70万円に近い金額だったと思われます。

その時、私だけ現地参加することができるかどうか問い合わせをしてくれたのですが、シャモニーのホテルとパリへの移動とパリのホテルだけで19万円だということでした。日本で言えば長野のホテル4泊、長野から東京までの新幹線代、東京のホテル2泊で19万円と言われているも同然でしたから、いくらお正月料金とはいえ高過ぎると、私はJALPAKには参加せずに別に計画を立てることにしました。

◇ ◇ ◇

まず最初にやったことは、シャモニーもホテルに電話して部屋を確保することでした。ところが驚いたことに、シャモニーのホテルは一週間以上の宿泊予約しか受け付けてくれないというのです。7泊8日が最低単位でした。

あちこちのホテルに片っ端から電話をしてみましたが、どこも7泊8日からしか受け付けられないと言われてしまい、日本とフランスの休暇の概念の違いを突きつけられたようでした。

同居しているフランスの友人に話したら「そりゃ、スキーに行くなら通常は二週間か三週間で予約を取るのが一般的で、一週間というのもあんまり聞いたことないわ」と言われてしまい、仕方ないのでホテルの予約は諦めて、現地で交渉することにしました。K子は一人部屋なので、同じベッドでも構わないから泊めてくれるよう交渉することにしました。まさか冬のシャモニーで野宿ということにはなるまいと思いました。

次の行動は列車の予約でした。1985年当時、インターネットなどない時代、駅の窓口に並んで切符を買うのはフランスでも日本でも当たり前のことでした。早くから並んだ方がいいよというフランス人の友人のアドバイスを受け、切符売り出し日の朝早く駅に行くと、既に30人くらい人が並んでいました。出遅れたかと思いましたが、次々に人がやってきて長蛇の列になりました。

最初は列が駅舎から飛び出していて並んでいるだけで寒かったのですが、少しずつ列が進み、一時間以上待ってようやく次の次が私の番となったその時、突然「はい、これからストライキに入ります!」と大声で宣言され、「ストライキ」という看板が窓口に立てられました。すると驚いたことに、私の前の二人も、後ろにいた大勢の人々も、誰も一言も言わず、蜘蛛の子を散らしたようにその場からいなくなりました。

私一人、きょろきょろと辺りを見渡し、ストライキの看板の向こう側にいる係員に、すみません、ストライキはいつ終わるのですかと訊ねてみました。すると、係員は不思議そうな表情で、そんなのわからないよ、だってストライキだからと言いました。

1970年代、80年代、私も東京で当時の国鉄や私鉄のストライキを何度も経験してきましたが、人々はストライキをする労働者に怒りをぶつけていました。報道もストライキをする労働者を自分たちの要求ばかりして利用者の迷惑を考えていないという論調でした。もしも日本で年末年始休暇前の長蛇の列を途中で分断するようなストライキが起きたとしたらとんでもなく大騒ぎになったことでしょう。

フランスにおいては、その後も幾度となくストライキに遭遇することになりますが、日本とはまったく違い、ストライキをする労働者の権利は誰もが認めているようで、以前にも書いたことがありますが(214.仏のストライキ’85)、ストライキには実にお国柄の違いを感じました。

後日、今度はストライキになりませんようにと願いながら改めて列に並び、無事に寝台車の切符を手に入れることができました。

◇ ◇ ◇

1985年の冬、私はヨーロッパでできるだけ色々な経験をしたいと思い、まず12月20日に高校時代の友人を訪ねてロンドンへ行き(123.ドーバー海峡)、パリへ戻ってきて別の友人と共にオペラ座にヌレエフのバレエを観に行ったり、ノートルダム寺院クリスマスミサへ出かけたりしていましたが、一旦下宿に戻り、12月29日の夜、住んでいた地方都市から夜行の寝台車でシャモニーへ向かいました。

約40年後の現在から当時のことを思えば、LINEもなければ携帯電話もなく、メールどころか家に電話もない留学生活で、よくロンドンやパリやシャモニーで友人たちと無事に落ち合えたと思います。けれど当時は手紙と葉書だけの通信手段でなんら問題なく友人たちと落ち合うことができました。

この年末の出来事は、私が日記代わりに実家の父宛に手紙を書いていて、数年前に実家の大片付けをした際に、父が私から届いた手紙はがきのすべてに受け取り番号と日付を入れて保管してくれていたのが見つかりました。今回のシャモニー行きについても、もうすっかり忘れていたような細かいことまで私は書き綴っていて、この文章を書く上で役に立ちました。

また同じく実家の片付けの際、友人が撮ってくれた写真のアルバムも見つかりました。これは友人たちが帰国後に写真を現像・整理して、一枚一枚にコメントをつけ、わざわざフランスに送ってくれたものでした。これも忘れていた記憶を繋ぎ合わせるのに役に立ちました。これ以降は、これらの資料の助けを借りながら書き進めていこうと思います。

◇ ◇ ◇

さて、夜行寝台車をリヨンで乗り換えてサンジェルヴェへ行き、そこで私の手紙の表現によれば「恐ろしくボロい登山電車」に乗ってシャモニーへと向かいました。当時の記録では、夜行寝台車のリヨン到着は朝6:43、リヨン発が6:49、サンジェルヴェ着が10:36、登山電車がシャモニーに到着したのは11:23でした。

すぐに観光案内所で地図とホテルリストを手に入れ、JALPAK一行の宿泊先を探しました。案内所の方が親切に、そこはホテルではなくレジデンスなので一般客は泊まれないとアドバイスしてくれましたが、とりあえず向かうことにしました。

まずフロントに行って今日JALPAKの一行が来るかどうか確かめると「来る」ということでした。しかし今晩ここに部屋が取れるかと訊くと、それは不可能だということでした。まぁみんなが来てから考えようとフロント近くのバーに腰掛けて文庫本を取り出して読んでいると、一人の日本人男性が声をかけてきました。

その男性は十五年ほどシャモニーで暮らしており、フランス人の奥さんと子どもがいて、難関で知られる現地のスキー学校を卒業して現在は指導員をしていると自己紹介してくれました。そして今日はこのホテルでJTBのLOOKのツアー客を待っているのだそうです。どうやら日本人顧客御用達のホテルでした。

この男性なら信頼できそうだと感じ、私も自分の宿なし事情を説明したところ、「じゃあ、フロントに聞いてあげましょう」と言ってくれました。彼はさすがに「顔が効く」ようで、フロントの係員は、JALPAKのメンバー表から部屋割りの表を見せてくれて、ご友人はツインルームのシングルユースになっているから同じ部屋に泊まれるし、料金も団体割引で食事もすべて同じ待遇にしてあげましょうと言ってくれました。特別待遇もいいところでした。

彼はJALPAKにも詳しく、添乗員の方とも顔見知りのようで、JALPAK一行が到着するのは夕方の4時か5時頃になると教えてくれました。そこで私は早速フロントから部屋のキーをもらって部屋に荷物を置き、サングラスや靴下を買いに町に出ました。シャモニーは世界にその名を轟かせている割にはこぢんまりとした小さな町でした。

早目に宿に戻ってフロントで待っているとJALPAK一行がやってきました。K子もスキー部仲間のK君もY君もいました。添乗員に事情を説明したところ、本来はこのようなケースは一切受け付けられないけれども、今回だけは「絶対内緒」ということで特別に許可してくれました。これまで誰にも言わずにきましたが、そろそろ40年経つので、もう時効ということで今回白状してしまいます。

父宛の手紙には「このような経緯で特別参加させてもらったので、皆さんのお世話役を進んで引き受け、通訳したり買い物のお手伝いをしたり、メニューの説明をしたりして、最初は添乗員さんも戸惑っていたようでしたが、すぐに仲間に入れてもらえました」と書いています。迷惑をかけている自覚があり、なんとか皆さんに受け入れていただきたいと我ながら努力していたようです。

◇ ◇ ◇

翌日の大晦日は、朝からスキーでした。ツアー参加者はガイド付きでしたが、K子は私がいるのでツアーから外れました。あとでわかったことですが、皆さんさすがにヨーロッパアルプスにスキーをしに来るくらいなので、素晴らしいスキーヤーばかりでした。

シャモニーは広大で、私がこれまでに行ったことのある日本のスキー場とは比べ物にならないほど、多くのコースがありました。しかしさすがにこれまで数多くの外国人スキーヤーを受け入れてきた歴史があり、スキーコースの難易度が色別で示されていて、一目瞭然に自分のレベルに合わせてスキー場を選択できるようになっていました。

K子と私は、数日間有効のリフト券を首にかけて、初級者でも滑れるコースにロープウェイやリフトを乗り継ぎながら向かいました。ロープウェイの中から眺めるモンブラン山系の雄大な眺めは、まるでカレンダーの写真のようでした。

リフトを降りて最初に感じたのは、こんな高い所から本当に滑り降りて行けるのだろうかということでした。あまりにすべてのスケールが大きいのです。K子は、華麗なフォームで滑り降りて途中で振り返ると、下から大声で、大丈夫だからゆっくりきてねーと叫び、私が来るのを待っていてくれました。日本でも彼女はいつも私が滑りやすそうな箇所を滑って、少し下で見守っていてくれました。

私はへっぴり腰で滑り始めました。もはや周りの美しい景色など目に入らず、なんとか無事に滑り降りることだけに専念していました。急斜面ではスキーをハの字に開くボーゲンで、なんとかなりそうなところではパラレルで大きく弧を描きながらゆっくりと滑りました。

少し慣れて来ると、だんだんと周囲を見渡す余裕も出てきます。すると私も相当に不格好なスキーヤーですが、周りのヨーロッパ人の中には、ボーゲンもおぼつかないような本物の初心者もいて驚きました。日本なら入門者はとてもこのようなコースには来ないだろうと思われました。

一時間くらい滑って次第に慣れてくると、K子はちょっと先に行くねと言ってわざわざコブのある場所を選んで膝を使いながら滑りを楽しんだり、直滑降であっと言う間に姿を消していきました。周りの入門者たちに励まされながら、私もなんとか滑り降りて行きました。

K子のことをよく知っている父に「K子は上手なくせに根性なしなので、頑張って滑るということはなく、ふたりで楽しくタラタラ滑りました」と書いています。スキーコースの端で疲れたといってふたりで座り込んでいると、とうの昔に追い抜いたヨロヨロボーゲンの入門者がやってきて、休むことなく更に滑り降りていくというのを何度も繰り返しました。ヨーロッパ人の体力には驚かされました。

◇ ◇ ◇

さて「K君トイレ監禁事件」が起きたのはこの日、大晦日のことでした。4人で宿に戻る途中、可愛らしいお土産屋さんがあったので私たち女子ふたりは寄り道して行くねというと、Y君が僕も一緒に行きたいと言い出し、K君はお土産には興味はないからと、ひとりで先に宿に戻ることになりました。

私たちはお土産物屋さんの帰りにスーパーマーケットにも寄って、部屋での宴会用の飲み物や食べ物などあれこれ調達しました。そしてK君に遅れること一時間半ほどしてホテルへ戻り、Y君は男子部屋へ、私たちふたりは隣の女子部屋へ戻りました。するとしばらくして、Y君が笑いを堪えながら私たちを呼びにきました。なんとひとりで先に戻ったK君は今までトイレに閉じ込められていたというのです。

K君によれば、ひとり先にホテルの暖かい部屋へ戻り、朝から着ていた窮屈なスキーウェアを脱ぎ捨て、パンツ一丁になったところで何気なくトイレへ入ったそうです。普段の習慣で誰もいなくてもトイレに鍵をかけたら、どういうわけか二度と開かなくなってしまいました。

彼は工学部出身の自称冷静沈着男でした。じっくりと鍵の構造を観察し、何度も自分に「落ち着け、よく考えろ、冷静になって考えれば必ず解決策は見つかる」と言い聞かせたそうです。しかしながら、いかんせん彼はパンツ一丁という装束のため、なんら道具もなく、しかも部屋の暖房もトイレの中までは届かないようで、次第にシンシンと冷えてくるのでした。

タオル一枚ないトイレの中で鍵を見つめながらガタガタと震え、土産物屋から一向に戻ってこない私たち3人を呪いながら、ホテルを訴えてやる、JALPAKも訴えてやると恨みを募らせていったそうです。

全身が冷え切って歯の根も合わなくなった頃、ようやく私たちが戻ってきました。Y君が部屋に入ると、K君はトイレのドアを内側からドンドン叩いて助けを求めました。Y君がトイレのノブをまわすと、不思議なことに外側から鍵は難なく開いたそうです。もしかしてコインを使ったのかもしれません。Y君は急いでK君の全身を毛布でくるんで全身をマッサージをしました。

ひと息ついたところで、Y君が、K君のこの姿はぜひ私たち女子にも見せねばならぬと呼びにきたのでした。

私たちが男子部屋に飛び込むと、唇を紫色にして歯をガチガチと鳴らしながら毛布にくるまったK君は、大いに憤慨していました。どこもかしこも訴えてやるー!と息巻いていました。確かに90分間、ほぼ全裸でトイレに閉じ込められては、肺炎にもなりかねませんでした。

3人で、悪かった悪かった、お土産などいつでも買えたのに、ひとり先にホテルに帰して悪かった、スーパーマーケットなどに行かなければ良かった、ごめんごめんと3人で慰めの言葉を投げかけつつも、せっかくだからと毛布にくるまり髪を逆立て歯を鳴らして震えているK君の写真を撮りました。アルバムには「90分間トイレ事件の主人公」とキャプションがついています。

◇ ◇ ◇

その晩、大晦日の年越しは、ホテルのダイニングで全宿泊者とともに大騒ぎとなりました。我々日本人のツアー客以外に、フランス人、ドイツ人、それにイタリア人のツアー客も数多く泊まっていました。イタリア人の陽気さといったら一緒にいるだけでこちらまで幸せになりました。

大晦日の晩の写真を見返すと、皆んなキラキラした三角帽子をかぶったり、つけ髭や伊達メガネをかけたりして仮装をしています。片手にはシャンパングラスやクラッカーや、先がクルクル丸まる紙の笛を手にしています。イタリア人のおじさんがものすごい肺活量で、何本もの紙の笛を一気に吹いて周囲の喝采を浴びていました。

日本のクリスマスとお正月が逆転した感じで、クリスマスはおごそかに家族で過ごし、大晦日は仲間とワイワイ騒ぎながら新しい年を迎えるようでした。

今では珍しくなくなった新年のカウントダウンですが、当時はこんな風に新年を迎えるなんて私には初めてのことでした。全員で10、9、8、7…と数えていき、時報と同時に「新年おめでとう」と叫び、その辺りにいる誰かれなく皆んな抱擁し合ってキスをしました。私も誰だか知らない人々とたくさん抱き合い、たくさんキスして、そのあとは盛大なディスコパーティでした。

Y君は、目をつけていた美しいイタリア人女性の近くへわざわざ行ってカウントダウンをし、抱き合ってキスもしてもらったと興奮気味でした。あとから彼女と抱き合っている写真を撮って欲しいと、特別にお願いして写したツーショット写真も残っています。あれから何年か後に彼が結婚した時、あの写真はどうしたのでしょう。

昼間はスキー三昧、夜は大騒ぎのカウントダウンパーティーで、新しい年1986年を迎えました。私たち4人は全員が26歳でした。39年前のお正月です。

◇ ◇ ◇

元日も2日も、昼間はスキー場にいました。私たちは全員同じ貸しスキー屋さんでスキー板を借りていたのですが、お昼休憩のあと、スキー置き場のK子のスキー板が片方なくなっていて、隣に同じロシニョールのスキー板が片方だけ残っていたことがありました。スキー板の長さが違っていてこれでは滑れないと、その日の午後はアルプスを見晴らすカフェのテラスデッキでのんびりと過ごしました。

あとになって、添乗員さんが間違えていたことがわかりました。長さが違うことにまったく気がつかなかったと知って大笑いになりました。

連日夜は、スーパーマーケットで買ってきたあれこれを並べて部屋で宴会となりました。今では日本のスーパーマーケットでも簡単に手に入るようになりましたが、当時はまだあまり知られていなかったブルザンのチーズやダノンのデザートなどをたくさん買い込んできました。

当時日本ではチーズといえばプロセスチーズという時代だったので、白カビのブリーや青かびのロックフォール、それにシェーブルと呼ばれるヤギのチーズなどせっかくフランスに来てくれたのだからと何種類ものチーズを買ってみました。冷蔵庫がないので、デザートをスーパーのビニール袋に入れたまま窓の外側の取っ手に引っかけて置いておいたら、凍ってしまって困ったことを覚えています。

しばらくすると同じツアーに参加している美男美女カップルが、私たちも仲間に入れてもらえないかとやってきました。人数が増えるのはもちろん大歓迎でした。美男美女カップルは、ファッション業界の人なのか美しいだけでなくおしゃれでした。彼らもあれこれ持ち寄って、夜遅くまで男子部屋で騒ぎました。

この頃からアルバムの写真には6人で写っていることが多くなりました。K子の字で「私たちよりも滑らなかった美男美女の2人」と説明書きがあります。

◇ ◇ ◇

1月3日は、私たちはエギュイーユ・デュ・ミディ(直訳すると「正午の針」)という標高3,842mという展望台へ見学にいきました。3,776mの富士山よりも高い所にある展望台です。前日に行ったツアーの人たちは天候があまり良くなくて上まで行けなったそうですが、ラッキーなことにこの日は好天に恵まれました。

シャモニーからロープウェイで3,777mの高さの山頂駅まで運んでもらえるので、登山家でなくとも少し歩くだけで、私たちでもヨーロッパアルプスの最高峰モンブランをを真正面に見ることができました。実に絶景でした。

インターネットで調べると、今ではエギュイーユ・デュ・ミディの展望台はガラス張りになっていて、いかにも21世紀という感じですが、1986年はフランスといえど昭和っぽい展望台でした。4人で競うように金網によじ登って撮った写真が何枚も残っています。強風のため目を瞑ったり髪を乱しながらも、両手を広げて歓声をあげている様子が伝わってきます。

◇ ◇ ◇

さて、エギュイーユ・デュ・ミディから戻ると、いよいよシャモニーとはお別れして、パリに向かうことになりました。JALPAKの添乗員さんから、申し訳ないけれど会社の規則で同じバスには乗せてあげられないので、自力でパリに向かってくださいと言われました。それでもジュネーブから乗ることになっているフランス版新幹線TGVの出発時刻や座席番号は教えてもらえました。

タクシーを呼ぼうとしたらタクシーが全然つかまらず困っていたら、なんとホテルの方が自家用車でジュネーブまで送ってくださることになりました。ホテルの宿泊料の精算をお願いしたら、団体料金を適用しましたからと驚いたことに一泊約8,000円でした。一泊二食付き、しかも連日年末年始のご豪華な食事だったので、私は最低でも一泊2万円を覚悟していただけにびっくりしました。

しかもシャモニーからジュネーブまで1時間40分、ずっと色々な説明をしてくれて、ジュネーブに着いてからも、列車の時間までまだあるからとあちこちの名所を周り、ひとつひとつ丁寧に説明までしてくれました。最後にいくら支払えば良いかと訊ねると、400フラン、約1万円と言われ、あまりにも申し訳ないので、500フランを支払うと、100フランのおつりを私の手に無理に握らせました。

シャモニーの日本人スキー指導者の「顔」のおかげで、考えられないほどの安価な特別待遇を受け、その上、ホテルの方々の素晴らしいホスピタリティを感じたシャモニー滞在となりました。

◇ ◇ ◇

TGVに乗ると比較的すいていたので、最初自分の席でハガキを書いていたら車掌さんが来たので切符を見せ、そのあと皆んなの席に移動してちゃっかり座り込みパリに向かった、と父への手紙に書いています。

パリの駅からはまた皆んなはチャーターバス、私はメトロで移動して、再びホテルのロビーで落ち合いました。時効ということでなにもかも白状してしまいますが、本当はいけないことと知りながら、パリのホテルでは黙ってK子のシングルユースのツインルームに潜り込みました。これは添乗員さんにも内緒で、皆んなで添乗員さんの気を逸らしつつ、こっそり部屋に荷物を運び込みました。

この時既に夜の10時をまわっていましたが、せっかくのパリの夜を満喫しようと、夜11時までだというエッフェル塔に向かって美男美女カップルも一緒に6人で急いで出かける準備をしていたら、同じツアーの公務員の新婚夫婦もやってきました。一緒に行ってもいいかというので、もちろん大歓迎! 但し駆け足になりますと8人で小走りにホテルを出ました。

間に合わないかもしれないと思いながらも大急ぎでエッフェル塔に向かい、到着したのが11時10分前でした。私たちの前にも後ろにもかなりの人が並んでいましたが、ちょうど私たちの8人の真ん中、4人のところで「はい、今日はここまで!」と言われてしまいました。すかさず「私たちはグループです! 8人グループなんです」と言って間一髪スレスレで全員最後のエレベーターの乗せてもらうことができました。

エッフェル塔では公務員カップルのご主人がカメラマンになってくれて、思い出に残る写真が何枚も残りました。このあと8人でカフェで遅い夕食を食べ、これまたギリギリセーフで最終のメトロに乗って、こっそりホテルに帰ってきました。

◇ ◇ ◇

翌日4日、ツアーの人たちはチャーターバスで市内観光へ出かけて行きましたが、私たち4人は別行動を取ることにしました。ノートルダム大聖堂を皮切りにサントシャペル、カルチエラタン、ルーブル美術館、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りを徒歩で歩き、焼き栗やクレープを食べたり、洋服を買ったりしながらゴールの凱旋門に到着した時には辺りは暗くなっていました。

へとへとになった私たちは路線バスで一旦ホテルに戻ったのですが、Y君がさっきシャンゼリゼ通りで「エマニュエル夫人」の映画をやっていたので是非とも観に行きたいと言い出しました。日本では女性の裸にはぼかしが入るので、フランスでなんとしてもぼかしのないエマニュエル夫人が見たいと言うのです。

私たち女子は女性の裸に興味などありませんでしたが、男子2人はこの機会を逃してはもう二度と見られないかもしれないと切々と訴えるので、疲れた体に鞭打って、また4人でこっそりホテルを抜け出し夜のシャンゼリゼに舞い戻りました。

フランスの映画館では、入り口のもぎりの女性が席に案内してくれる仕組みになっていて、K君はその女の子が可愛いと夢中になっていました。しかしエマニュエル夫人の映画は、前日シャモニーからパリに移動して、その日一日中パリを歩き回った我々にとっては睡眠薬で、4人ともすっかり眠り込んでしまいました。

◇ ◇ ◇

翌朝、11時にJALPAK一行はホテルの駐車場から空港へ向かいました。12月30日にシャモニーで会い、1月5日の朝パリのホテルで別れるというちょうど一週間の年越し旅行でした。K子、K君、Y君、それに美男美女カップル、公務員の新婚夫婦、それに添乗員さんとも別れを惜しみ、皆んなと別れました。私も12時の列車で住んでいた地方都市に戻りました。

父への手紙の冒頭には「午後に帰ってきてあまりにも疲れていたので荷物も放ったらかしにして、夕方4時ごろちょっとだけと眠ったら、目が覚めてみると11時になっていて、よく寝たなぁと思ったら外が明るい! なんと翌日のお昼近くまで19時間寝続けていたようです。それほど疲れた旅行だったけれど、それ以上に楽しい旅行でした」と書いています。

今回、昔の航空便を読んだりアルバムを眺めていたら、シャモニーで新年を迎えた1985年から86年の記憶が、まるで昨日のことのように蘇って来ました。私たちは大学を卒業してから4年目の冬でした。よく働き、よく学び、よく遊びました。

今振り返っても、若くなければこれだけの日程はとてもこなせないと思うほど、毎日盛りだくさんの日々でした。遊び呆けたのも若さだし、19時間ひたすら眠り続けることができたのも若さでした。


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