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思ヶ想ヶ キェルケゴール①

必然性と可能性について。

キェルケゴールの「死に至る病」という書物を、自分なりに要約してみようと思う。今回は本書の中でも、必然性と可能性について記述する。初めて哲学書を読んでみた私にとっては、非常に難解な本で、間違った解釈をしているかもしれない。

キェルケゴールは本書において、絶望することを「死に至る病」と考えている。その絶望の捉え方に、可能性と必然性について述べた章がある。

自己というのはもちろん自己自身であるが、しかしまた、自己自身となるべきものでもある。自己が自己自身であるということは自己は必然的なものであり、自己が自己自身になるべき(希求する)ものであるということは、自己は可能的なものである。自己は可能性と必然性を等しく有していなければならないのであって、可能性を持たない自己は絶望しているし、必然性を持たない自己は同様に絶望している。

例えば、可能性のみが必然性を置き去りにして、独走すると考えると、可能性(自分がなりたいと思うような自己自身)の中で、今ある自己自身(必然的自己自身)から逃亡し、現実的な考えを忘れ、深淵が自己を吞み込んでしまう。可能性とは、一切が可能であるので、いくらでも可能性の中を歩き回ることができる。しかし、可能性は追いかければ追いかける程やがて、本当の自己というものへの帰路を見出すことができずに、暗闇の中をさまよう羽目になる。

であれば、可能性を欠けばよいのかというとそうではない。可能性を欠く、すなわち自分がどうなりたいかという考えを全く持たない状態というのは、もはや何もせずに黙ってじっとしているようなことになる。つまり、彼に欠けているものは必然性なのである。よって、自己が可能性の中をさまよってしまうのは単に自己が心の弱い人間であるからではなく、必然的なものに服従する力、勇気、が無いからである。

この二つの関係(可能性と必然性)は、いうなれば子供が何か楽しみに招かれた時と似ている。子供は、ある楽しみにすぐさま興味を示す(可能性)、ところが、親がそれをどう対処するのか(必然性)、そこに問題があるのだ。

そこで出てくるのが「神」。

神は一切の可能性が可能である。神を信じる者にとって、これは永久的に真理であり、したがってあらゆる瞬間、場面において真理である。よって人間は救済を求めて神にしがみつき、神を信仰する。いうなればそれは、自己の可能性を得たいがための狂気の信仰なのである。なぜならば、絶望している人間にとって、可能性のみが唯一の救いだからである。

それゆえに信ずるものは、可能性が絶望に対する永遠に確かな解毒剤になりうることを確信している。なぜなら神にとっては一切が可能だから。このおかげで信仰者は健康になり、絶望し破滅が確かになりながら、まだ可能性が存在するという矛盾を解くのである。


とまあ、自分なりに要約してみたのだが、端的に言えば、「今ある自分と将来こうでありたい自分を常に持ち、意識し続けることが絶望せずに済むコツだが、普通無理なのでなんでもできる神様に縋れ。」ということかなあ?いやはやなんとも。スッキリしない。


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