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凡庸で幸せになる

ここ数ヶ月、いや本当はここ1年以上、迷走感を強めていた。

そして、今年8月に、仕事場を辞めた。それは、1年のうちに2度目の短期離職だった。

50歳も見えてきた中年、短期転職繰り返している身の上で、次の場は見つかってなかった。自分でも、うかつに次の場を得ても、定着してしっかりやっていける気もしなかった。

「あれ、俺、詰みかかってる?」
という思いは、自ずと湧いてきた。


待ち多き転職活動

無職になった俺は、当然、次の場を探しはした。ただ、シャカリキに求人を探して、ガンガン応募、とはならなかった。それなりの年齢になっていることも自覚せざるを得なかった。そんな身軽な身分でもない。

自分的にも、雇う側的にも、カモーン!とグイグイいける身上でないのは確か。きっとどこかに良縁見つかるはず、と根拠なく信じ、届く紹介の中から可能性を感じるものを選んで応募した。

応募しても、リアクションは芳しくなかった。書類段階で弾かれることの方が多く、次の機会をもらえても反応は先方の慎重さをありありと感じるものだった。自分の履歴を鑑みれば、そりゃ当然だ。

恋愛と同じでお相手あってのこと、自分だけゴリゴリ、オリャオリャと動けば事が進むものでもないので、祈って待つ、が中心の転職活動だった。

不貞寝、断捨離、読書と思索

転職活動が、前述のような待ち中心だったこともあり、ふんだんな予定なき時間が訪れた。

やっていたことは、大きく3つ。「不貞寝」「断捨離」「読書と思索」だった。

潜在意識と自律神経に感謝の不貞寝

特に初期は、「あー、こりゃ詰んだ、お先真っ暗だ」と未来への希望を見出せず、「ここまで俺のやってきたことは間違いだったのか」と過去を呪い、「自分は落伍者で役立たずではないか」と自責する、底落ちの心理的モーメントが働いた。

そんな時、どんな本を読もうが、どんな動画を見ようが、誰の話を聞こうが、あまり直接的に楽にはならなかった。できたことといえば、パワーストーンを握りしめて、昼から寝ることくらいだった。

人間は、顕在意識が制御しているのがたった5%で、残りは潜在意識と自律神経だ、と言われているかと思う。自分の場合、5%の顕在意識の微力ではにっちもさっちも行かず途方に暮れたので、潜在意識と自律神経に身を委ねたようなものだった。

不貞寝する日々を重ねるうち、心乱さずに現状を受容する気構え(あきらめ)が徐々にできてきた。さすが、潜在意識と自律神経の力は凄いものだ。

自己の非武装化、断捨離

これは、無職になるちょっと前から始めたのだが、大胆に断捨離した。

と言って、人間関係など非物質的なものではなくて、蔵書・家電など物質的なものを、譲渡したり廃棄したりした。

予兆は7月にあった。それまで、「いつか図書館したい」という漠たる願望のもと600冊ほど溜め込んでいたが、重みによって本棚が崩壊し始めたのだ。その頃には、前職での限界も感じていたこともあり、「身軽になって転地しよう」と直観が働いて、蔵書の処分からスタートしたのだ。

結果的に、フリマアプリや買取業者に譲渡することを中心に、蔵書はほぼ全て処分し、テントサウナや災対バッテリーなども売り払う事ができて、相当身軽になった。

今になって思えば、これは自分の「非武装化」になった気がする。それまで、自分を「武装」するかのように周りに書籍やものを置いて不安解消していたように思うからだ。

珠玉の読書と思索の時間

フリマで蔵書を処分する際に、一度も読まずに売り払うのは惜しいと始めた読書。それに伴って派生した思索。

これらは、自分を見つめ直し、これから再スタートを切る今の自分にとって、振り返れば必要不可欠だったな、と思う。

お別れが決定した膨大な本の中から、「いつか絶対読みたい」と思いつつ「いつか」を設けてこなかったものを中心に読んだ。宗教・哲学・脳科学・量子力学的生き方論なんかが中心だったのだが、角度・ジャンルは様々でも究極「人はどう生きると幸せなのか」を探求した書籍を多く読めたことは、自分自身の理解や、今後のあり方の検討に大いに役立った。

普通、学生時代にしかなかなかできないことを、社会人になってやったようなものかも知れず、とても贅沢な体験だったような気がしている。

自分の課題と目標

ありがたいことに、良縁を運んでいただいて、10月に入り次の仕事が決まった。

ホッとする一方で、これまでとは何かを変えないと、同じ轍を踏むんじゃないかとの懸念も持っていた(正確には、今も持っている)。

そこで、不貞寝・断捨離・読書と思索で得た自分の中での変化や思いをもとに、自分の課題と今後の目標を整理した。

なお、この活動においては、ヴァジム・ゼランド氏の書籍(振り子の法則、トランサーフィン関連)から私が感じ取ったものが大きく作用していると思う。

まずリアトラQNAさんに感謝

ゼランド氏は、ロシアの量子力学者だそうで、その量子力学の知見をベースにした生き方論を複数の書籍にされている模様だ。「振り子の法則」「トランサーフィン」といった概念が有名で、「引き寄せの法則」を試してるがうまく行かない引き寄せ難民にも、打開のヒントをくれている著者として有名(なはず)だ。

日本語版では、現在は『タフティ・ザ・プリーステス』のみ購入でき、その他は絶版していて中古が高値で取引されている様子。

私は『タフティ・・』をちょこっと読み齧っただけで、その難解さに困惑して中断し、YouTubeチャンネル「リアトラQNA」の動画視聴して、ゼランド氏の主張を理解した気になった。

「リアトラQNA」さんは、入手困難な絶版本も含め、難解な説明をときほぐし解釈・説明した動画にしてくれている。私は原書を読みきれてないので確約などできないが、たぶん、リアトラさんの解釈と説明を聞くと、多くの人にとっては、自力読書より速やかに、そして遥かに深く・鮮明に、ゼランド氏の伝えたかったことが分かる気がする。

まずは、「リアトラQNA」さんの活動と作品に敬意を表し、感謝をこの場で表させていただきたい。凄すぎます、ありがとうございます!

自分の課題

ゼランド氏の思想?を理解した(つもりになった)上で、自分に立ち返った時、私の苦しさ・途方に暮れる状況につながっている課題が見えた気がした。

私は、何に重要性を過度に付与してきたか。そのことが、過剰ポテンシャル解消のどんな平衡力を働かせ、今の現実が生まれているか。これを、私自身は以下のように今は理解した。

過度の重要性付与
 平凡であってはならない(非凡であるべし)との信念固持
 → 凡庸な自分では生きる価値などなく、非凡を証明せねばならない
働いた平衡力
 ・「自分は非凡でなく凡庸だ」と認めざるを得ぬよう仕向ける
 ・「自分は生きる価値がない」と認識するよう仕向ける

上記のように理解すると、私自身は腑に落ちるというか、思い当たる節が大いにあるのだ。

私の母は、いや恐らくは母の親(私の祖父母)からして、「生きていくのは難儀だ」との言語化・認識化せざる恐怖信念を持っていたように思う。その恐怖信念は、母が私と接する中でも発揮され、私にも言語・認識を介さず移転されたと思う。

「周りの凡庸な奴らとは違う」「勉強し優秀な成績を修め、非凡さを証明して”非凡者の椅子”に座らねばならぬ」との非言語メッセージ(いわば振り子の振動)に母子で無自覚に囚われ、いつしか私自身もそれにすがるようになっていたと思う。例えば、学校の友人がつるんで楽しそうに過ごしているのを見た時、「自分は凡庸な奴らとは違うから、つるんだりしないんだ」などと自分に言い聞かせていた気がする。

19で引きこもりになったのだが、その時「自分は”非凡者の椅子”には座れないようだ」「気づけば”凡庸な奴ら”より人間関係も心境も貧しく寂しい状況になった」「そもそも”非凡者の椅子”ってどこ?」と、疑義に気付き掛けたようにも思う。

ただその後、結局は自分を突き動かす隠れた恐怖信念の可視化をコンプリートせぬまま、徐々に再び、元のコースに戻っていったように思う。むしろ、挫折経験やその時得た感覚知見を、「自分が特別な証拠」として悪用する結果にもなったような気もする。

40歳を超え、再び「どうやら自分は非凡ではない」と自覚せざるを得ない状況になったとき、仕事も家族も放って突飛な転身をすることで、非凡の証明活動のリスタートを図ったのではないか、と今は思える。転身の動機全てをそこに結びつける気もないが、間違いなく「凡人には理解できない、神がかった特別ミッションに身を捧げて世界を変える」的なドラマチックな高揚感は持っていた(まだ、捨て切れてない気もしてる)。

そうして4年。「ロマンチシズムに関しては、平衡力が空中楼閣を破壊すべく、ロマンチストに過酷な現実への遭遇を用意する」とのゼランド氏の示唆の通りになっている。セルバンテス『ドン・キホーテ』のように風車を巨人と見立てて独りよがりな巨人との合戦に明け暮れた挙句、夢から醒め風車の前で呆然と立っているような感覚だ。

今までのどこかで気づいて抑制・放棄すべきだったかも知れない、「凡庸恐怖(非凡必達)の隠れ信念」。これを、今まで抱えて持ってきたことで、宇宙の平衡力は現状を用意してくれた、ということだろう。

希望

平衡力のおかげで、だいぶ惨めな現実に直面させられたとも言える現状だ。ただ、絶望とはかなり遠い状況で済ませてもらっている、とも思う。

それが良いことなのか、悪いことなのか、それは今後の自分が決めることなのかも知れない。少なくとも、この期間に、リアトラQNAさんの動画やゼランド氏の著作に出会い、そこから得られた感覚をもとに思索できたことで、今後の自分の在り方への示唆を頂いた気になっている。

自分の望み
・平衡状態を尊び、自分と自分の大切な人たちに、
 穏やかに過ごしてもらえる在り方で居続けたい
・非凡/凡庸を優劣とみなす価値観や、
 「凡庸は生きる価値無し」との誤った信念から離れたい
・これまで、無意識に見下したり無視していた凡庸・平凡
 のありがたさ・面白み・温かさに気づけるようになりたい

誓い
・気分や態度言動の浮沈・極端な凹凸の兆しに注意して観察すること
・兆しが現れたら、それを癒し・赦し、宥めること
・自分・他者・社会の存在意義・存在価値を疑うような資格・能力
 など持っていないことを自覚すること
・常に「道は一つではない」「急がば回れは存在する」「気楽が一番」
 と心得て、身体・心情の強張り無い状態に向かい続ける

・・・色々書いたけど。
もう、自分をも、自分の大事な人たちをも、困惑させたり心配させたりしたくない。「嫌いじゃ無いけど、近くに置いておけん」と言われたくない。俺はそんなに強い人間じゃなかった。大それた人間ではなかった。

今日からの俺に、幸多き事を!
神よ、我よ、
祓いたまえ、清めたまえ、守りたまえ、幸わえたまえ。

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