アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』
バディは車を走らせる。
クルド人の兵士見習いの若者、神学生のアフガニスタン青年、断られるごとに次の相手を物色して助手席にのせては自殺幇助の仕事をして大金が欲しくないかを尋ねてまわる。
断る人々から、金で動かない、人間だれしもにもともと備わっていたであろう良心があからさまになる。金はあっても死んでいるみたいに生きている不幸な人が、金が無くても懸命に生きている人たちの神の祝福を、金を使って奪い、自分と同じ不幸な虚無へ引きずり込もうとする。
神学生のアフガニスタン青年へ
金の理屈で支配されたところなら、すぐに手伝ってもらえそうだし、システムの理屈で支配されたところなら、すぐに警察に通報されるだろう。でも、この映画のイランでは、人々はあやしい中年とも人として向き合ってふつうに話をする。
映画とはいえ、日本でこんなふうになるだろうか?
美しい人々の心と、その美徳がまだ使い物になる状態で、魂が神とつながっているイランやイスラム圏の祝福いっぱいの映画だ。
自然史博物館剥製室のトルコの老人の言葉
バディが憂鬱を配りながら、生きる理由を求めて車を走らせ、人々を巻き込むのをみていると、ある同級生のことを思い出した。14歳の頃、彼女は私にたびたびリストカットの話をする。彼女は話をきいてほしがり、私の話もしてほしいようだった。彼女の悩みは深く、心は壊れていた。そのときの私が手に持っていた桑の実や桜桃の味を、彼女は欲しがっていた。
体のどこかや脳神経に炎症があるとうつ病になるというけれども、炎症が起こるのはストレスや免疫が下がったりするからでもあるし、一部を取り出した作用だけでなく、その人や環境トータルを俯瞰する必要がある。
近くにいるものができるのは、その人に危害を及ぼすものが無いところで、何気ない話をするのがいい。
東京にいるときは、キアロスタミの映画や、佐々木昭一郎の映像を観ると、素朴な風景や人々が涙が出るぐらい心に沁みた。東京は人情があって優しい人、話かけてくる人がたくさんいて、街も好きだったけど、開けていると入ってくる情報量が多すぎたのかもしれない。
地方に移住したときは、なんもないような、寂れた、流行から取り残されるようなさみしさはあるものの、太陽や自然が近くて、システムに押し流されずに、人が人らしく生きられる余地があることが嬉しかった。
いま、Googleのストリートビューに映り込む自分をみつけると、私もここのただの風景になって、季節とともに移ろいゆくものなんだと思う。異質であることが、個人として生きている意味なのであれば、それは薄らいでいっているだろう。そうやって、いつか風景の一部ですらなくなって、ぜんぜんいなくなる。無だ。車を走らせ、異質な存在であることの葛藤があるうちは、ベクトルが不正なだけで生のエネルギーがまだ手元に残されている。
Amazonのレビューによると、自殺についてシオランの言葉を監督が引いていたらしい。