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一を以て之を貫く

 この言葉は『論語』の里仁編にある一節である。孔子は“自分の人生は、一つのことで貫いてきた”ということを述べているが、「一生涯一つの理念をもってそれを貫き通すこと」を意味する。ここでいう“一つのこと”というのは、自身の思いやりに正直である「忠」と他人の苦境に思いやりを持つ「恕」を併せた「忠恕」という儒学の根本原理を指し示す。
 また、道元禅師は『正法眼蔵随聞記』にて、「広学博覧はかなふべからざることなり(広く学び、博く書物を読むことは、到底できることではない)」と説いた。人生わずか八十年、いずれは死んでいく命であり、鈍根劣器の者はたった一つのことすら専念することは適わないのだから多岐にわたっても道は得られないというわけだ。ようするに、人間の寿命などいつ終わるか分からないので、一刻も早く仏道を学んでおくべきだと禅師は考えていた。さすがとしか言いようがない。
 ところで、最近、雑誌『ちゃぶ台7』にある土井善晴さんの随筆「料理をしない提案」を読んだ。土井さんはかねがね“一汁一菜”(味噌汁、惣菜一品)を提案している。まさに一つのことを貫く姿勢である。『料理と利他』を読んで、目から鱗が落ちたばかりなのに、さらに“料理をしない”という表題を見て驚愕する。「家庭料理というのは苦しんではいけない、そもそも食事は幸福のひとときである」に至極頷いた。料理というのは形として残らないがゆえに、心持ちではなかなか難しい面がある。というのも、作る人は何を作るか考えるところから始まり、毎日のことであるため揉め事も多々起き得る。大変だが、家庭があれば作らないわけにはいかない。生きていくために必要不可欠だからだ。
 禅語に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す(喫茶喫飯)」という言葉がある。お茶をいただいたならそのお茶を飲み、ご飯をいただいたならそのご飯を食べるという当たり前な意味だが、お茶をいただくときに珈琲が良かったなと思わずにお茶をいただく。相対的なものの見方があると、ジュースが欲しいとか、欲や煩悩に基づいた文句が出てくるというもの。たとえば、今日はお肉が食べたかったなという欲が出てしまうと、料理を作ってくれた人はどう思うだろうか。作っていただいたものを、感謝の気持ちを持って、楽しく、美味しくいただく、それが大切。
 ご飯を食べているときに、スマホをいじったり、テレビを見たりする人がいるかもしれないが、それで食事を本気で味わっているといえるだろうか。命あるものをいただいているのに、ただ腹が満たされればいいという考えは如何か。あれもこれもやりたいことがあるかもしれないが、まさしく二兎追う者は一兎も得ずであり、まず一つのことに専ら向かい合う方がよかろう。私事ながら、大学受験の時に、あれもこれもと目移りして問題集を買ったものの消化不良となり失敗を喫した。やはり、一つのことを貫き通すことが大事であることは多い。
 しかし、短い命であるがゆえに、新しいものを取り入れることで人生観ががらりと変わることもあるのだから、目の前にあることを素直に受け入れて、楽しめたら素敵だなとも私は思う。

2021.6.17


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