なぜここにいるのか book review
『アンモナイトの谷』
バーリー・ドハティ・作
中川千尋・訳
新潮社1997
母親さがしの物語である。と同時にアイデンティティの深求でもある。
15歳のジェームスは恵まれた環境に育ち、飛び込みの才能があり、オリンピックを目指しながら日々練習に励んでいる。産みの母を知らないが、養父母もそのことを特に隠さない。
「養子の件で、何か気になってることでもあるのか?」
「いつでもきいていいんだぞ。わかっているかぎりのことは、みんな教えてやるから」
これはジェームスの養父の言葉だ。彼らはジェームスを養子に迎え、自分たちの子として育てている。迷いや不安がなかったわけではないが満足している。
ジェームスも彼らが自分に愛情を注いでいることをよく分かっている。養母はジェームスを養子に迎えたことを、ただの一度も後悔はしなかったと言い切る。それでも、ジェームスは生みの母をさがす旅をする。
これは人間の本能ではないだろうか。ジェームスは産みの母に、何かを求めているわけではない。作品の冒頭で、ジェームスは読者に語りかける。
「きみは、自分が生まれたときのことを考えたりする?そうだよね。ぼくも、ふつうは考えない。ただ、ぼくはどうしても知りたかったんだ。ぼくのお母さんが、ぼくを欲しくて産んだのかどうかってことを」
人は自分の出生について、考えるものなのだろうか。疑問をもつものだろうか?「ふつは考えない」のかもしれない。だからふつうでない時、何かきっかけがあったり、心に迷いが生まれた時、ふと考えるのかもしれない。
ジェームスはその時のことを「生まれてはじめて、この世のすべての人間と関係が切れた思いがした」と語っている。その時に、自分を産んだ人のことを考えはじめたと。
「ただ、会ってみたかっただけです」
ジェームスは旅の終わりに養父母にあてた手紙に書いている。そして、15年の年月を経た産みの母との再会後、ジェームスは「あの人のことを、ほんとうのお母さんだと思わなくなった」と語っいてる。
ほんとうの母は、養母だ。それを確信するために、ジェームスはやはり産みの母に会うべきだったんだろう。私もジェームスであったなら、同じ行動を取ったと思う。それは、自分自身を受け入れるためなのかもしれないし、なぜここにいるのか、知りたいのかもしれない。
人は個であり個ではない。すべての人間と関係が切れたとジェームスが語るように、人は人とつながっていて、現在の自分は過去の自分ともつながっている。そのつながりの中に空白があると、その部分を人は埋めようとするのかもしれない。
子どもを産んだだけで母親にはなれない。母親になるためには、その子とともに生きる必要がある。この本を読んであらためてそう思った。
バーリ・ドハティの著作は『シェフィールドを発つ日』『ディアノーバディ』といずれもすばらしい。でも、なぜか私はこの本にいちばん惹かれた。どの作品も核は同じだとも思う。
1997