この国の正しさについて 現在、未来――
新語・流行語大賞は「オールドメディア」だったと思う。
多分、今、日本人の最大多数が納得していた言葉だろう。
果たして、むしろ、これこそが、今流行りの「えっ、“これ”って今年のはやりか?!」とばかり、来年の言葉として一周遅らせるというやつなのだろうか。
だが、この言葉、ご本人が「自分は地上波メディアからなかったことにされている」とおっしゃる、自民党の青山繁晴議員からでもある。
「ABEMA Prime」(討論系ニュース番組)で司会を務める平石直之アナウンサー(テレビ朝日)は、「そんなことない」と、ゲストとして青山議員が来局した際に、ネットテレビの中で言い置いてはいたが。
個人的な好みで言うなら「嫌い」であるが、N党の立花某を地上波放送がアウト(この表現も嫌いだ、が世間的に、正にこうしているとしか言えない状況にあるのであえて使用)にしていることも理解が出来ない。
別に出演させてやればいいと思う。
一体どこで線引きをしているのか――?
需要がない—―は、建前だろう。
「NHK」が、立花某を出演させないのは道理に倣う。
だが、その他民間放送が出演要請をしてはならないという道理はないわけで、理論上は、「公共放送」との差別化が図れるはずなのだが、一緒くたに“延焼させられそう”で怖いということなのか。
しかし、それでも理由を挙げるなら、現在進行形で訴訟を抱えているとか、実刑判決が下されなかったとはいえ、「有罪=前科者」だからであるとか、と、いうことになるのだろうが、あくまでかつての基準に倣うなら、これを以て絶対に出演させられないという理由にはならないはずだ。そして、いくら「コンプライアンス」が肥大化して行こうと、この先においてもならないはずだろう。
「テレビ局(民放・公共)」が運用せんとするコンプライアンスは、結局のところ“世間の顔色窺い装置としての看板機能”以上でも以下でもないだろうから。
しかし、以上のことから現状を悪しとし、“絶対のルール”を「テレビ」に求めていくことには反対だ。「反対」と明言する方が、支持としては“やや支持から、どちらとも言えない寄り”に留まってしまい、「賛成」である立場の方が“消極的ではない支持”が集まりそうだが、それでも「反対」。
絶対に「賛成」ではない。
「テレビ」がその出演にあたり、政府における閣僚の資格査定のように、“身体検査(身元調査・取り調べ)”の実施を義務化していったら、それこそ流行り文句として、誰しもが耳にするようになってしまった、“テレビは本当に終わる”が現実になると思う。
果たして、どこまでがその「身体検査」をパス出来るのか――?
清廉性を潔癖に求めた結果、“5歳児までしか出演出来なくなりました”とか、まるでSFのような世界にでもなったら、それはそれで面白いが、下手をすれば、「大谷翔平」でさえセーフにならない可能性がある。恣意的な運用をしなくとも、告発から査問に掛けるまでは、最低限そう難しくはないだろう。
だから、線引き次第では「大谷翔平」も「立花某」も一緒。
大リーグのMVP=執行猶予中。
ルールは破るためにある—―とまでは言わなくても、ある程度の“遊び”はあった方がいい。
爆笑問題の太田さんは
と言っていたが、個人的には、これこそが今年の新語・流行語大賞である。絶対だ。間違いない—―価値。
――「綺麗事を言うようだけど、誰もが自分を一番守る権利があると思う。法的にうんぬんはわからないけど」(「サンデー・ジャポン」1月14日放送)
何故これが、新語・流行語として、ノミネートされ得るところにまで行かなかったのか、皆目見当がつかない。もしこれに、対抗出来る言葉があるとするならば
のみだろう。
そして、この時点まで書いてきて、このブログは、出来るだけテレビの関係者に読んでいて欲しいと思う。
「Mー1グランプリ2024」の審査員に、松本人志さんを登用してもらいたい。
個人的な望みというより、“正しさ”としてそうすべきだと考える。
個人の感情で言うならば、むしろ松本さんが審査員を務めていなかった大会も楽しんでいたように、主役は出場権を勝ちとった漫才師であり、漫才師が披露する漫才こそが主題であるので、審査員が誰であるかは重要なことだとはいえ、言わば副菜みたいなものであり、本来は松本さんの意向で自由にしてくれて「どうぞ、どうぞ」なのだが、事今年に関して言えば、松本さんが出演しないことによって生じてしまう“正しさ”が邪魔をして、「Mー1」を上手く観られないかもしれない。流れのまま視聴しない可能性も自然にある。
だからこそ、「Mー1」の審査員が仕事始めになっては、“テレビ番組兼漫才大会”としての趣旨がぼやけてしまうので、「12月22日」の決勝戦までに、二度ほどテレビの出演を挟みたい。
候補としては、“撮って(即)出し”が可能そうなABCテレビの「探偵!ナイトスクープ」と、フジテレビで放送されている「酒のツマミになる話」だろう。
一般人である側が提唱するのは、出過ぎであるという気がするし、また“ネタばれ”である可能性も含むため、強く勧めたくはないのだが、動向があまりにもとろくさい(寝てんスか?)。
「酒のツマミになる話」は、千鳥の大悟さんをMCに据えたまま、一ゲストとして、大勢の一人として、松本さんを使ったらいい。緊急生放送でも何でも、やる気さえあればいくらでもやれる。
「人権、人権、人権がー」——ならば松本さんにだってある。
また、「新語・流行語大賞」の選考委員については、金田一秀穂氏(杏林大学教授)、辛酸なめ子さん(漫画家・コラムリスト)、パトリック・ハーランさん(芸人)、室井滋さん(女優・エッセイスト)、やくみつる先生(漫画家)、大塚陽子氏(「現代用語の基礎知識」編集長)という顔ぶれだったらしく、ほぼ全てテレビで見たことのある顔。
“どこの馬の骨が……”などという人選ではない(正直、大塚編集長以外わかる)。
だが、その中でも、とりわけ気になってしまうのがなめ子さんで、「週刊文春」が告発記事を書き出していた当初、「文春」の取材に応える形で、告発女性を全力で擁護し、痛烈に松本さんを非難していた(おそらく「取材に応じた識者」という形の中で、最も強く松本さんを責めていた)のだが、その気持ちは現在も変わっていないのだろうか—―?
あれから時間も経ち、新たに判った情報も付け加えられていると思うのだが、どうなのだろう?
元々バラエティー番組に出演していた姿を見て、「面白い人(綾波レイのコスプレとかしてたんじゃなかったか?)だな」と思っていたから、ショックだった。もちろん、“自分がショックを受けているから”—―他人がショックを受けているので――を理由に、意見を変えてもらいたいとは思わないが。
また、そこまで時間を巻き戻さなくとも、「松本さんと文春の裁判」が終結したひと月ほど前の時点で
と、当裁判に対しての白黒を、他人に委ねる趣旨の声を、複数見掛けたのだが、そのような気持ちを、一度は抱いただろうという記憶のある人には、以下の放送を奨めたい。
松本さんが裁判を取り下げた当日(11月8日)、直近にて放送された内容だ。
初めて耳にした時から、「中立」だと感じたし、改めて聴き返してみても、同様だ。
「週刊文春」が、あくまでマスメディアという肩書を持つからといって、“第三者”であるというわけではないことがわかる。
しかし、これほど有用な情報発信にもかかわらず、「コメント」を探したら、ただの一つしか付いてない。
何故だろう?
荻上チキ氏も、「文春」の取材に応じていた識者として、松本さんを批判していた一人だけど、同学年ということもあるし、とはいえそこに何の根拠があるかといえば特に何もなく、あくまでラジオを聴いてきたという経過があり、「左派」メディアという評判の中、「その考え方はヤベえな」と思うことがありつつも、信頼している。
クドカン先生の語より知らなかった。
もう何年もまともにテレビを見てないから、「晴れ風」なんて、正真正銘初めて聞いた。
友達なんだから、任せておけばいいんじゃないか?
自分自身を罰せられるのは自分と死だけ。
「憎悪」または「嫌悪」が連鎖することにより、中立が動いて行っているのだとしたら、それは正しくない。
自由がない中でもスピッツは流れてた。
つんつん、でんでん、まいまい。
「まりっか」もかわいッス。