可能性を守る
これは趣味嗜好の領域になるが、少数派の肩を持ちたくなってしまう嫌いがある。全てが全てではないが、ある。
改めて、「RIZIN」における平本蓮のドーピング疑惑について触れてみたい。
禁止薬物を平本に売り渡したとする告発などの状況証拠から、特別に、追加で、ドーピング検査を平本へ実施したいという気持ちはわかる。その気持ちを頑なになって潰したいとは思わない。
だから、榊原信行CEOが、平本に向け、それを直接提案することはいいと思う。提案すること自体が、契約書を元にがんじがらめになっているということはないだろう。
だが、ここから先については、論理的に考えていかなくてはならない。
仮に、すでに「陰性」となった尿検査のほかに、血液検査や毛髪検査を行い、「陽性」反応が出たとしても、朝倉未来との試合がノーコンテストになることはない。
朝倉との試合を成立させるために実施されたドーピング検査が「陰性」であったことは、すでに確定事項だからだ。
つまり、「陽性」が出たとしても、そのドーピングが使用されたのは、試合後という解釈になる。試合後という可能性が消せないのだから。
なので、当然ペナルティーは与えられることになるだろうが、それは以降の試合を対象にした、出場停止処分になる。
ここまでは、この見方が不動である。
この見方を覆すことは出来ない。
だとするのなら、煩悶とさせる悩ましい境界線は一体どこになるのか――?
「平本が自らドーピングの使用を認めた場合」だ。
平本が自らドーピングの使用を認め、初めて「ノーコンテスト」の可能性が生まれる。
だが、誤解してはならないのが、あくまで“可能性が生まれる”だけだということだ。
それほどまでに、科学的に証明された物的証拠は重い。
当事者である平本が、「ドーピングをしてました」と証言したとしても、引っ繰り返せないかもしれないほどの重さ。
オフィシャルが下した裁定というのは、厳粛であることが当たり前なのだ。
たとえば、バンタム級の世界ランカーである栗原慶太というボクサーがいるが、先日行われた試合で、判定により勝利したにもかかわらず、あまりの不甲斐ない内容に、「俺は勝ってない」と泣きながら訴えるということがあった。しかし、果たして、オフィシャルが一度下した結果を逆転させたかと言えば、そんなことはなく、勝敗が引っ繰り返ることなど、あろうはずもない。
もちろん、その裁定を下したレフェリー陣に、競技を歪める悪意を伴った恣意的な判断があったならば話は変わってくるが、そのことが事実として概ね発覚しない限り、当事者である競技者が、自ら「勝った」と訴えたところで勝ちになることはないのと同じで、自ら「負けた」と訴えることがあったとしても、負けになることも当然ない。
レフェリーにもレフェリーの誇りがあって然るべきだし、その業界が健全であるのなら、もしくは健全であろうとするのなら、一方が勝った、一方が負けた、と主張する度にその裁定が揺らいでしまうようでは、競技性が保ち続けられない。
これを平本のドーピング疑惑に当て嵌めるなら、試合前に採尿された尿に対するドーピング検査が、極めて重いオフィシャルの下した答えということになる。
とはいえ、どちらが勝ったか負けたかという、あくまで試合の中身(判定)に対する主張――主観――よりは、覆してもいい事案であるとは思う。
厳粛さを良しとするか。
柔軟性を良しとするか。
しかし、仮に平本が如何なる言葉を発したとしても、「陰性」であった事実を下に、朝倉との試合は平本が勝利したという、オフィシャルの裁定を厳粛に維持し続けたとしても、そのことについて、榊原氏が批判される筋合いはない。
犯罪でも、現代に近づくほど被疑者の「自白」は、証拠能力として弱まっている。
人が人を裁くという理(ことわり)において、当事者とされる人物が何を語ろうとも、客観的な証拠や科学的な物証は、それを上回っていくというのは健全な流れだ。
世の中、一般的ではないことが、本当に本当であったりすることもある。
そして、その本当に本当である可能性を、踏み潰すことが自分はあまり得意ではない。