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アイドル大好き

文章を書くことなんて誰だって出来る。
息を吸うよりは難しいが、それと比較したくなるほどの事だ。
いきなり「さあ、なんか書いて」と誰かに言われたとしても書ける。
——と、いきなり指が止まる。

センスが問われるからだ。

文章全体としての——?
いや、個人的にはブログ程度でそこまで風呂敷を広げる気はないので、今から書こうとしていたものに対してだ。
——「たとえ」だ。

「いきなりでも何でも書けます、自分は。
◯◯も☐☐も△△も……」

この虫食いの部分だ。
言うは容易く行うは難い。
いや、言うは容易く、行うも容易いが、言われるも容易いのだ。

文章なんてゴミカスでも書けるという持論は変わらないが、たとえば——

2023年7月2日の日曜日。本日は天候も良く、7月の誕生花であるひまわりが今にも咲き誇らんとする勢い。
ところで、ひまわりって“ひらがな”で書くのがいいのか、“カタカナ”で書くのがいいのか、“漢字”で書くのがいいのか、そう考えると難しいものです

——とか。

本日はあいにくの雨で、果たしていつ梅雨が明けるのか。日本の気候は、気温の高さとともに湿度が高いから、ほかの国の気候よりまた一段別の不快さがある……なんて言う。
だったら「住めば都」という言葉は、日本人には当てはまっても、海外から日本に来る人には当てはまらないんじゃないか?というのは、スウェーデン的発想過ぎるか。
スウェーデンって、世界一澄んでて、過ごしやすそうな気候してそうだもの

——とか。

自然科学的には、その環境に天敵がいなくなるとカラダがのびのびと大きく進化するという説があるが、イブラヒモビッチがイブラヒモビッチになったのはだからか

——とか。

まあ、書こうと思えば何だって書ける。
しかし、「肉と骨」の関係であれば“たとえ”は肉であって、肉をどうデザインするかがセンスになり、その人の腕が問われがちになるのだ。

生きていれば放っといたって「骨」はある。
太った、痩せた、腹をへこませたい、太もも周りを削りたい、血管が浮き出るほど逞しい二の腕にしたい。
スタイル(見栄え)として気になるのは、どちらかと言えば「肉」だ。

だから、こうして、ああして、こうしようという骨子が固まったとしても、ボディメイクの部分で「や~めた」となったりする。うぜえ。
また、ということもあって、何かを書くにしても「コメント」は書き易いのだろう、と思う。

声を掛けられたら、声を返す——無視する方が気を遣う。
お題があるから、解答する——義務教育。
記事があるから、コメントする——日本語わかるもん。

“きっかけ”があった方が、筆を走らせやすいというのは確かだ。0から生み出すより、他人の声に受肉するのだ。
だから、自分も「他人のブログ」を読む努力をしようかと思う。
他人のブログを読んで、コメントをしてみようかと思う。
他人のブログを読んで、思い付いた内の3番手くらいの内容をコメントしてみようかと思う。
他人のブログを読んで、思い付いた内の3番手くらいの内容をコメントして、1,2番手の内容を頭の中で転がしてみようかと思う。
他人のブログを読んで、思い付いた内の3番手くらいのコメントをして、1,2番手の内容を頭の中で転がして、それが適当な形になったら、改めて自分のブログの“きっかけ”にしようかなと思う。
他人のブログを読んで、思い付いた内の3番手くらいのコメントをして、1,2番手の内容を頭の中で転がして、適当な形になったら、自分のブログとして書き始め、やっぱり3番手のやつを膨らませた方が良かったなあ、なんてオチが付くかもなあと思う。
他人のブログを読んで、思い付いた内の3番手くらいのコメントをして、1,2番手の内容を頭の中で転がして、適当な形になったら、自分のブログとして書き始め、やっぱり3番手のやつを膨らませた方が良かったなあ、なんてオチが付くかもしれないが、それは心理的なもので“ないものねだり”に過ぎないと、気持ちを落ち着かせるのだろうなあと思う。
乃木坂46の歌の中では、「きっかけ」と「ないものねだり」がたまに聴きたくなるなあ——と思った。

文章なんてゴミカスクズのチンピラでうんこ漏らしにだって書ける。

余談一つ。
何故?って訊かれても知らないが、「THE SECOND ~漫才トーナメント~」は、伏線回収系のネタもスベってたなあ。

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