新常識
一介のブログ書き風情が、どこまで背負い込むのが適正なのかと言えば、諸所に意見があるだろうが、吐いた唾とて拭い取った方が善きとされる昨今において、しかし、果たしてインフルエンサーというわけでもなく――ああコレ面倒くせえや——「呪術廻戦」ハッピーエンドの下、終わる。
予想大外れ。
両面宿儺死亡(第268話「決着」)——ハッピーエンドへ。
両面宿儺戦解説(第269話「検討」)——ハッピーエンドへ。
宿儺戦後通常任務へ(第270話「夢の終わり」)——ハッピーエンドへ?
続いていく日常(第271話「これから」)——ハッピーエンド。
強いて言うなら、270話がバッドエンドの気配を漂わせていたことから、それを裏切ってのハッピーエンドという言い方も出来なくもないが、なかなかに苦しい。
しかし、それでも言い訳を述べるなら(予想が当たんねーんだもんなあ)、269話の「検討」を読んだ時点で、“ひょっとしてこのままハッピーエンドで押し通す気か?”とよぎってはいた。
右向いていたから、左で終わる。
左向いていたから、右で終わる。
一事が万事、古今東西、程度の差こそあれ――そしてその程度のエッジが一番効いているのが日本だと思っているのだが――、それがエンターテインメントにおける定石だろうと思う。
ただ、本来ならファンブックなどでやるようなこと—―自作品に対する解説——を、本編(269話)でやった時点で、従来とは違う形で行く気かも……とは、何となく。
この時点で、「作品は発表した時点で(作者の手から離れ)、ファンのものになる」と古くから踏襲されてきた、良し、または潔しとされていた創作者側の型を、裏切ってはいた。
また、だから、それをやってしまった時点で、“そこが駄目なんだ”という読者の感想を目にしたりもした—―それこそ理想は、ファンブックにおける解説さえ不必要なほど、本編の中で過不足なく収め切ること――が、新しいことをしたとは言える。
タブーを犯しただけとも言える。
それでも、最終話の1話前で、バッドエンドに向けて軽いジャブを打ってきたという風に捉えていたことから、ハッピーエンドはありえない。良くない。駄目。だからバッドエンドに決まっている――が、自分の予想。最終話前の感想。
「夢の終わり」というサブタイトルについては、所詮サブタイトル――厳密に言えば「本編」外——として重要視していなかったが、通常任務に帰って行くという流れを踏まえれば、波乱があってこその良き収まり。趣味嗜好は真っ二つだろうが、嗜虐性を良し(宿儺に勝った猛者たちが、何故か、さらに、雑魚に?!、嬲られる)とする終わり方なのだな、と。
しかし、違った。
でも、悪くはなかった。
ネタばれを書き続けてきて今更だが、具体性を帯びずに良かったという説明をすると、作者は伏線回収を緻密にしたかったのだな、と感じた。
最早うろ覚えに過ぎなくなっているが(だから、具体的に書きたくとも書けないとも言えるわけだが)、最終話は「虎杖悠仁」と「五条悟」と「両面宿儺(裏梅)」ら三者に対する伏線回収に対し、労力を費やしたかったようだ。
取り分け、その中でも自分の印象に残ったのは五条と宿儺で、それぞれ一言ずつ感想を当てるのなら、前者に関しては“自分が思っていた以上にフジファブリック(志村正彦 2009年12月24日没/享年29歳)への思い入れがあったのだな”ということになり、後者に関しては、“結局コレが書きたかったのかな”と。
宿儺については、死の瞬間があっさりしていたことも、宿儺が復活することも含め、バッドエンドをイメージさせる根拠になっていたのだが、死ねば終わる現実とは違う物語であったからこそ、宿儺に死後の心境を語らせることで、伝えたかったことを表現した。個人的には、やけにあっさり死んだことに対する回収として、凄く腑に落ちた。
あの世に向かう宿儺には、「幽☆遊☆白書(作・冨樫義博)」のキャラクターである戸愚呂(弟)の最期を連想させるという意見もあったようだが、戸愚呂(弟)が元々そうであった人格を晒した(素を見せた)だけだとすると、宿儺は死んだことにより生じた変化なので、先人との違いは見せてきたと思う。
他作品からの影響という意味では、「DEATH NOTE(原作・大場つぐみ 作画・小畑健)」の中でメロがあっさり死んだことを参考に、宿儺の死もあっさりと描き、(宿儺側からみて)逆転させようとしているのかと思っていた(「DEATH NOTE」で言うとニアが勝つことで、結果的にメロの敵を討つ)。
もちろん、違っていたので、違っていたわけだけど。
そして、これら伏線回収のきめ細かさ――逆に言うと粗っぽさ――が、「呪術廻戦」という作品だったのかなという気がする。
前者については、最終話に向けてのシーンに代表されるように、「より個にフォーカスした心理描写」への伏線回収を指し、後者は「『虎杖仁』って、ただ単に蒸発しただけだったのかよ!?」――的な部分。
従来あった少年漫画では、「虎杖仁」を伏線とし、その回収を必須としていたところをスルーして、丁寧な「心理描写」こそ良きとする――。
この辺り、もう結論は出ているのかもしれないが、「芥見下々」は女性作家なのではないかという説が捨て切れない。
もし、本当に男性作家なのであれば、少年漫画誌上における男性作家の新時代——「女々しい男性」の少年漫画——突入ということになるのかな……?という気がする。
これが青年誌や少女漫画であれば、ここまで大袈裟な言い回しをすることもないと思うのだが、少年誌においては「ONE PIECE(作・尾田栄一郎)」がど真ん中なわけだから(「ONE PIECE」を批判をしているわけではない)。
大枠な伏線の回収を無視してでも、きめ細かな伏線を回収をすることで、決着も含めると4話(決着に向けての「決着気配(主人公側のターン)」も含めると4話以上)もの間、ハッピーエンドを続けても、ベタくさく――「つまんねえ、何だコレ?」——にはならないのだな、というのが最終的な総評。
悪くはなかった。
いや、良かったと思う。
何だかんだで全体の半分を立ち読みのようにしてしか読んでいないので、今度漫画喫茶で一泊するようなことでもあれば、ちゃんと全話読んでみよう、と思う。
余談。
一介のブログ書き風情が、どこまで背負い込むのが適正なのかと言えば、諸所に意見があるだろうが、吐いた唾とて拭い取った方が善きとされる昨今において、しかし、果たしてインフルエンサーというわけでもなく――以下割愛。
あまり寂しいと思うことがない人間なのだが、何日か前に、夢の中である人物に自身を投影させることで、寂しさを感じてしまった。
ああ……ハイトーン兄弟が2回戦敗退かあ~。
ハイトーン兄弟——にゃんこスターのスーパー3助さんとパーパーのほしのディスコさんが組んだコンビ。
1回戦の出来を観る限り、かなり面白いと思っていた。にもかかわらず「Mー1 グランプリ」の2回戦で敗退。
誰に自身を投影させていたかと言えば、それは3助さんで、何故3助さんに自身を投影させていたかと言えば、自身が面白いと思っていた漫才が、“わずか2回戦で落ちるのかよ!?”と感じていたからだろうと思う。
夢の中で3助さん、もとい自分は、人がいる所を目指して、歩いていたような記憶がある。
にしても、あんなに面白い漫才が2回戦で敗退とは――目標修正。
「一撃で決勝に進出し、決勝では自身がやりたい漫才をやる」
決勝の審査員に合わせるより、準決勝までの審査員に合わせる方が、“相手本位”という意味において、その比率は高い。十中八九、“やりたい漫才”で勝つ可能性は、決勝の方が高いと思う。
そもそも、昨年のMー1で一番面白かった漫才が、さや香の「見せ算」(決勝の2本目)だった時点で、ズレてる。さや香も、「見せ算」を準決勝で披露していたなら、決勝には進めていなかっただろう(ネタを書いている新山さんに言わせると、松本人志さんを照準に披露したネタだったらしい。こう書くと、アンチやにわかは「マツモト忖度ガー」の志向性が脳内を駆け抜けていくのだろうけど、逆。エッジを最大限に効かせた“自分本位”の漫才をやる受け皿が松本さんで、松本さんがいなくなることの方が、その他の審査員の顔色を窺うようなネタ作り・漫才選びになり、多様性が細っていく公算が高い。この辺の考察からしても、「文春」文脈には残念ながらリアリティーがない)。
しかし、「こんなに面白くても『準々決勝』では落ちるんだろうなあ~」が、準々決勝はおろか、3回戦にすら進めず、2回戦で敗退とは……。
「つまんねえ、何だコレ?」が、評価されてたりしたら嫌だなあ〜。
「落ちたぞー!!」
ついでに書き置いておくと、自分は「スーパー3助」の固定ファンではありません。漫才が面白かったから面白いと言っているだけです。さらに言うと、1回戦の漫才が面白かっただけであり、落選した2回戦の漫才がどのような漫才だったかは知りません。ただ、急造コンビだったことを考えると、同じネタをしたのだろうと思っています。また、「フワちゃん」に関しても同様です。
“面白い・面白くない”で言えば、笑ったことはないと思います。SNSの騒動があり、ブログ上で自分はフワちゃんを擁護していますけど、“ソレとコレは別の話だから”というだけです。
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