『白い果実』 ジェフリー・フォード
ディストピアの独裁者ビロウから離反した一級観相官クレイの失墜と再生、奇跡の白い果実と楽園を巡る物語。悪趣味と美が混在して輝く結晶のような娯楽作品で、人狼、悪魔等のファンタジー要素と観相学の掛け合わせが面白い。要素が多過ぎて説明不足に感じる部分や御都合主義な展開も見受けられるが、後半は疾走感があり一気に読んだ。
クレイはビロウの命により、白い果実を捜すため属領へ赴く。この辺境の地アナマソビアの基幹産業は、都市の燃料として用いられる青い鉱石の採掘である。鉱夫たちは終いには自らも青い鉱石と化し、銅像として飾られるか国へ売却される。
第Ⅰ章では翻訳者に山尾悠子が名を連ねていることの意義を十二分に感じる。青い鉱石や酒の魅力とクレイの冷血、ビロウの残虐さが引き立ち、冷たく冴えている。クレイが多くのものを下等と切り捨てることで、ビロウの統べる理想形態市がその存在感を増す。
冷血という言葉を用いたが、クレイの性格は非常に高慢かつ下劣である。勿論、改悛を前提として設定されたものであるが、辺境で未だ根付く宗教や偽楽園のテーマと併せ、聖書のエピソードのように感じる。アーラに行った悍ましい仕打ちがドラッグ中毒者の離脱症状の所為としても、企図段階で既に狂気の沙汰であったけれど。
理想形態市を築き上げたビロウは並外れた知性と技術力を持っている。他ならぬビロウが支配者に適した相を持っていたため、体系化された観相学が重んじられている点も面白い。その反面、クレイを初め多くの観相官が暗闇や未知のものを恐れている。顔がなく、解釈すべき印がないためだ。アナマソビアの町長はクレイに暴力を受けた後でこう言う。
「ここでは邪悪なものの影の下で生きていくために、ある種のユーモア精神とでも申しますか、そのようなものが是が非でも必要なのですわ」
クレイ閣下は無知と一蹴しているが、町長の笑いは防衛反応なのだろう。クレイが恐れる暗闇の淵で、悪魔の影に怯えながらも懸命に生きる者たちの強かさである。虐殺の日に、初めてクレイは悔恨の念を抱いた。町の人々から何も学ばなかったならば、彼が生き永らえることはなかった。
第Ⅱ章では、クレイが流刑地で過酷な硫黄採掘に従事する。アーラがクレイに宛てた『この世の楽園への不思議な旅の断片』とクレイの幻覚や夢が混じり合い幻想的である一方、現実では、瓜二つの昼の伍長と夜の伍長、人間的な猿サイレンシオとの関係性の中で、生まれ変わったクレイの感情が溢れるようだ。悔恨の念から涙し、伍長への懐疑心に揺れ、時に酒を飲んで語らい安らぎを得る。皮肉の効いたこの章で、著者は読者をクレイと共に振り回す。ラストの場面は脆い哀愁があり美しかった。
第Ⅲ章では、理想形態市に戻ったクレイがビロウと対決する。ビロウの行為は自ら弱点を作るような軽率さであったけれど、「脳を握り潰されるような頭痛」と発作の場面は映像化すると映えるイメージだと思う。
理想形態市は記憶術に基づいたビロウの頭の中の反映であり、彼を守るクリスタル球の如きものである。市内でビロウが反乱の気配を嗅ぎ取った時、浮き彫りになったのは、父と子のようなビロウとクレイの愛憎関係だ。未だ傲慢かつ残虐なビロウだが頭痛も相俟って憔悴し、クレイを心の支えにしている。クレイは過去を悔い改めたが、憎悪を向けている筈のビロウを時に心から心配する。クレイは子供時代の夢を見た際、父親がいつまでも怒っており、その所為で母が早死にしたと明かしている。これは邪推だが、こうした家庭環境で育ったためにクレイは他者と良好な関係を築く術を知らずに育ち、絶対的な知と力を持つビロウに従うことで自分の生が正しいという安心感を得ていた可能性もある。
青い鉱石スパイアはspireと綴るのだろうか。もしそうであるならば、先の細く尖ったものという意味を持つこの言葉と司祭の爪や歯が尖っていたことに何か共通の意味があるのかも知れない。卵から孵化した聖家族、種を託した緑人、種を媒介する人間、白い果実の発見場所=アナマソビアの司祭、新天地へ羽搏いたクレイたち――
訳者後記で、金原氏が本書を「エンタテイメントの王道をいくような巧みな」作品であると興奮気味に紹介しているのに対し、山尾氏は澄んだ水を湛えたような文章でストーリーのひとつの軸が〈女性をめぐる物語〉であることに触れている。
確かにクレイは改心し、アーラへの贖罪のために行動する。だが、理想形態市から属領まで須らく女性は男性より劣ったものであるという認識が広まっており、その価値観は終始揺らがない。
クレイの恋愛は悉く成就しないまでも、アーラからは二度の赦しを得た。一度目は言葉によって、二度目は残された緑のヴェールによって。旅人の「物事は変わっていくものだ」という言葉に勧善懲悪のニュアンスを感じて少々鼻白んでしまうが、今後二部、三部も読んでいきたい。