『記憶の書』/『緑のヴェール』ジェフリー・フォード
白い果実三部作のうち、第2部、第3部を通して得た感想をまとめておく。
第1部では、理想形態市の観相官クレイと支配者ビロウとの対決が描かれている。理想形態市は崩壊し、生き残った人々はウィナウという集落を形成。クレイはアーラへの非人道的な行為を完全に赦されてはいないが、薬草を使った医師、助産師を生業とし、ウィナウでの穏やかな日々を手に入れた。
第2部では、ビロウによりウィナウに眠り病が蔓延する。ビロウ自身もまた眠り病に感染し、特効薬に関する知識は彼の頭の中にしかない。クレイは人々を救うため、ビロウの意識の世界を旅することとなる。ここで「父」ビロウを助けるためクレイに手を貸すのがミスリックスという魔物である。
第3部はミスリックスの語りで幕を開ける。クレイとミスリックスは連れ立って〈彼の地〉へ赴くが、ミスリックスは引き返す。彼は〈彼の地〉から持ち帰った物質を通してクレイの動向を探り、手記に残す。斯くて人間社会に融け込まんと努力するミスリックスと〈彼の地〉におけるクレイの冒険譚が並行して綴られる。
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第2部は第1部に比べ単調な物語ではある。しかし、ミスリックスの登場が第3部を読み解く上で重要であると思われる。
ミスリックスはビロウにより知性を与えられた魔物である(第1部にも登場している)。廃墟と化した理想形態市でビロウと暮らし、ビロウを父として愛し尊敬している。クレイのビロウに対する思いは、憎悪、崇拝、親子の情のようなものが相変わらず綯い交ぜになっている。クレイとミスリックスは兄弟のようだ。「親子」全員が美薬中毒であり、素晴らしき邂逅という事態ではないのだが。
ミスリックスは理想形態都市で拾った品々を〈廃墟博物館〉に展示しており、クレイに披露する。クリスタルの破片や骸骨、改造人間の身体の一部など、こうした品を集めたのは理想形態市が父の全てであったためで、美しさ、儚さ、珍奇なものへの興味や知的好奇心、ひいては人間性への憧れによる。都市の残骸はクレイの人生の断片でもあるが、彼は甘く苦い過去への郷愁のみでしか都市の残骸を眺めていないようだ。
眠り病の特効薬はビロウの頭の中にあるが、レシピが形通り存在するのではない。ビロウは師匠スカーフィナティから学んだ緻密な記憶システムに則って記憶の宮殿を築き上げている。宮殿の中の物一つ一つが何かの象徴である。例え人間の形をしていても。「彼ら」は研究者としてここに滞在しており、いつか解放されて自分の本当の生活や愛する人たちに会えると信じて疑わない。クレイは彼らのうち、美しい女性アノタインに惹かれる。ビロウの容態の悪化に合わせ、脳内世界の島は少しずつ崩壊していく。
クレイの加害的、自己愛的人格は顕在だが、第2部ではアノタインがクレイの好意を受け入れる。ウィナウの人々もビロウも眠り病に罹ったまま衰弱死、クレイもビロウの中で死ぬという末路が迫る。父なるビロウの思考の一部が擬人化した存在と愛し合えるなら或る意味メリーバッドエンドなのではないかとも思うが、ミスリックスが彼を快楽から引き戻す。その後の行動も、人々を救うという正義感からではなくアノタインを救うためだけのものだった。アノタインが何の象徴であるかは想像通りであり、その外見はビロウの過去に関わるものだった。
目覚めたビロウとクレイの対峙。眠り病を蔓延させたのは、ビロウがミスリックスのためを思ってのことだったと明かされる。息子への愛を口にしながら、ビロウは人を抑圧し、隷属させ、抹殺することを厭わない。結末において、クレイ、ビロウ、ミスリックスの関係性が明確になる。ウィナウの人々は眠り病から救われるが、一筋縄ではいかぬところがこの作者らしさか。
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第3部は〈彼の地〉の生と死を巡る物語、或いは罪と罰の物語だ。
本書の主人公ミスリックスは引き裂かれた存在である。人間の「文化」と「理性」の臭いを嫌悪する魔物にミスリックスは受け入れられない。魔物と人間、どちらにも所属できぬ本質を一つの個性として受け入れてくれたのはクレイだけだった。理想形態市に戻った彼は、1人の少女との出逢いをきっかけにウィナウの人々と共に暮らすことを目指す。それはビロウの願いでもあった。
クレイは〈彼の地〉に踏み入り、第1部と同一人物とは思われぬほどの逞しさを見せる。有り合わせの素材で武器を作り、射撃や弓の腕を磨き、生死の境で戦い続ける。得意の皮肉も殆ど聞かれない。壮絶な孤独の中、手の付けられない駄犬から頼もしい道連れへと成長したウッドが寄り添う。
本書は2通りの読み方ができなくもない。冒頭でミスリックスが読み手に解釈を委ねているが、それはクレイの現在の生死より更に進んだ問い掛けだったのだ。初めはクレイの物語とミスリックスの物語を切り分けて読んでいたのだが、緑人と水人が結託してクレイを犠牲にしようとする場面と、ミスリックスの人間らしい狡猾さや猜疑心が露わになるタイミングが一致しており気に掛かった。2つの物語の人間に対する侮蔑的な視点が余りにリンクしている。 そうして、不可思議とだけ捉えていた描写の幾つかが事実を示唆しているように思えてきた。振り返れば、作者は第2部から既にこの顛末のヒントを提示している。ミスリックスがクレイに観相してもらう場面、そしてアノタインの初めて見た夢も。
クレイの物語は薬物中毒者の夢想であった。だが、魔物に喰われた者はその記憶の中で生き続けるという言葉に従えば、クレイの旅は事実であったとも言える。シリーズを通して脳内世界と現実世界は繋がっている。そして世界は見る者にとって都合の良いように描き出される。贖罪はうやむやのままクレイの物語が幕を閉じるのも、物語の紡ぎ手がミスリックスであるが故なのかもしれない。何故なら、ミスリックスは第2部において観察者であり、クレイの行動や出会った人物しか知らず、アーラとは面識がない。アーラに対するクレイの業を詳しくは知らず、知っているのはクレイがアーラからの赦しを求め続けていること、真に相愛となる相手と巡り合わないことだ。クレイだけでなくウッドも第3部において変わり過ぎた。ミスリックスはクレイとウッドを英雄のように描くことで彼らに贖罪しているのだろうか。
クレイが〈彼の地〉で得た家族について。ウィラと亡き夫との間に産まれたレイスは、クレイを父と呼ぶ。レイスとはそもそも怨霊と呼ばれる者たちのことで、ウィラは自分たちの生存を脅かす者の名を息子に付けた。ウィラ――アーラとウィナウに似た名前。かつてクレイが救い、滅ぼしかけた新天地であり、ミスリックスが人間と共に暮らすことを夢見た場所、ビロウが息子の幸せを願い、根付かせたかった場所。
ミスリックスがクレイを喰ったのだとすれば、父ビロウの復讐を果たした事にもなる。クレイとミスリックスはカインとアベルでもあったのか。ただ、殺害者ミスリックスはクレイの行方を本当に「知らない」。〈彼の地〉が本当はどんな姿をしているのかも分からない。ミスリックスが処刑される事によって、ビロウの願いは叶わず、これまで紡がれていたクレイの物語も潰える。何だか勧善懲悪のようではないか。
帝国で生きてきたクレイにとって〈彼の地〉は抗い、戦う場であった。しかし沈黙の民に学んだ後、自分はウィルスであり、〈彼の地〉が異物とみなした侵入寄生生物だと考えるようになる。これはミスリックスが人間の世界で暮らすことと重なり、それでもなお受け入れてもらおうと直向きに努力する姿は悲しい。クレイの象徴する死と再生も、ミスリックスの人間に対する評価やこの先の自分を待ち受ける運命からの逃避願望でしかないのかもしれない。だが、そうした数々の意思や想像力が形を得て細胞のように寄せ集まり、この奇妙且つ壮大な物語を作り上げている。
〈彼の地〉での生き死にの鬩ぎ合いも、ウィナウでの異質な存在を巡る出来事も、理想形態市の廃墟が見る夢だったのかもしれない。