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『モロイ』サミュエル・ベケット

小説らしくあることを放棄した小説。主人公2人の回想という形式をとるが、語りは屡々でっちあげやはぐらかしにより攪乱される。語り手の感覚は「もろもろの現象の波しぶきのあいだで揺れ」、目的に向かって行動するも果たされない。彼らは現実と自己を繋ぎ止める手続きを行わない。無数の「今」の渦の中で紡がれる有機的な語りこそ本書の魅力であって、その語りの為に語り手は実人生において帰属の箍を外す必要がある。

モロイ、それは人の名であり、そうでないとも言える。

彼は時折、「モロイは〜だ」と語る。一見離人症的であるが、ここには訳注にあるゲーリンクスの思想が反映されているのだろうか。身体がどれほど不随意、不完全であろうと、精神は自由に遊ぶ。今ここの不確かさ、苦痛に満ちた現実に囚われない不思議な魅力をモロイは持っている。

モロイとは崩壊に至る予定調和の渦中にある者、混沌の妙なる音楽を聞く者。苦痛の中に快さを発見した時、モロイ的なものが甦る。これはⅡの主人公モランも同様だった。
モロイがモロイ的なものになったのはそれほど昔のことではないようだ。「長い人生で、何でも拒みすぎてきた。いまじゃ、全部鵜呑みにしてやる。貪欲に。私に必要なのは物語なんだ」とある。現実から自らを解放し思考を裏切ることで、モロイの世界は一層混沌に沈む。
語り手であるモロイは既に「生きるのをやめ」ており、崩壊の静けさの中で現実に対し乾いた目を向けている。全壊した後のモロイとは何者なのだろう。

おしゃぶり石をいかに完璧なサイクルで使用するかを執拗に描写することは、混沌の中で何かを繋ぎ止めようとする空しい希望にも見える。これまでずっと「たぶん」というはぐらかしの語りの中にいた彼はここへ来て自律の求道者となり、異様な熱意を見せる。
豊饒な感覚を遮断し美しい律動のみに集中している間も、唯一確かな崩壊の時は確実に近付いている。だがそれよりも、月の大いなる光への憧れ、孤独や怯えといった意識が微かに生じた直後において、内なる声は彼を混沌の深みへ一層強く引き戻すようだ。

モランは探偵としてモロイ捜索の旅に出る。

モランの息子に対する理不尽な仕打ちは非常に不快だ。誘惑の罠に陥るのを救う為だというのは口実で、息子が語られるとおり愚鈍であるかすら実際のところは分からない。だが、その「悪徳」は息子に自分を棄てさせ極限状態を迎える為の布石であったとも言える。

モランとモロイには、変化を嫌い、独自の心地よいサイクルを徹底的に探るという共通点がある。モロイは社会の辺境におり快に忠実であるのに対し、モランは当初仕事を持ち、猜疑的で合理性を追求する気質の持ち主だった。だが、旅の過程で膝の痛みが増すごとにモランはモロイ化していく。

はぐらかしの語りが増え、内なる声を聞き、他者へ必要以上の暴力を振るい、楽な姿勢をとるための新たな体勢を熱心に模索する。この模索に対し、モランは思いもかけない快楽、驚異的な楽しみを感じる。「ついには動くことも不可能になったら、それこそ何かにちがいない! それを考えると、私の精神はうっとりしてしまう」。さらには、息子が逃げた後に食糧が尽きて衰弱した後も苦しみの中で異様な満足感を見出し、自分という人間に熱狂し魅入られる。これらの不思議な高まり、崩壊を前にした浮かれ騒ぎには何か揺さぶられる思いがした。

本懐を遂げることなく帰宅したモランの人格は荒廃し、松葉杖を手にしている。モロイを捜索するはずだった彼がモロイに近しい存在となり、語り始める。物語を紡ぐことは著者にとっても魅力的な戯れ、唯一追求すべきものなのだろう。

―――

散歩者AとBが偶然出会うように、モロイとモランは一度だけ邂逅する。その交錯が劇的変化を呼び込むわけではないが、モランは徐々に、しかし確実にモロイ化していく。
モランが幾つものモロイについて触れたように、人間とは多面的であり、誰もが似ている程度に誰もがモロイに似ている。主体性を剥奪された主人公たち、曖昧な時間や場所、帰着しない物語、これらは戦後の瓦礫の中で生まれたようにも思う。だが結局、これは絶望や希望を取り扱った物語ではない。
闇の中で行われる律動、崩壊の間際で見出す恣意的な快楽、その快が不思議と読み手の深部に沁みていく。

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