『パラダイス・モーテル』エリック・マコーマック
虚構と真実のあわいを掻い潜り、剣呑さを警戒して読み進めていたはずが、いつの間にか進んで罠に足を踏み入れていく心地がした。怜悧な語り/騙りの技巧に酔える好著。
身体に植物を植え付けられ土に埋められる刑
体内に何本もの串を刺す見せ物
父が殺した母の身体の一部を埋め込まれたマッケンジー家の子供たち
――こうした表現は、「わたし」の妻ヘレンも言ったように言葉の殺傷可能性を示している。身体に関わる生々しいイメージは全ての隔たりが侵犯され得ることを表すかのようで、何処か幻想的な美しさすら湛えている。
マッケンジー家の子供たちの名は聖書に基づいており、「わたし」ことEZRAの名前は無縁のはずの彼ら全てのイニシャルで成り立つ。これを前提とし、語りは謎解きの体で進められてゆく。「わたし」の傍らには美貌と機知に富む妻ヘレンがおり、章の最後に「わたし」の推測を補佐する。心身共に合一している様が意味ありげに描かれていく。
だが、マッケンジー家の子供たちと「わたし」の円環が終盤で閉じることはなかった。
思い返せば、著者は作中人物に人の話すことは鎧や包帯に過ぎないと表明させていた。私の目が「わたし」と重なり、灰色の海と空、浜辺の白い泡を見るともなしに見る。幻惑の後に何も残らないというのは斯くも爽快なのか。
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本書は「わたし」のナラティブ・セラピーの顛末とも読める。
《自己喪失者研究所》は「わたし」の中に存在していたということだ。
マッケンジー家の殺された母親とは「わたし」自身の意識、子供たちに埋め込まればらばらになった身体の一部は意識の分裂を暗示し、それらを統合させようとする試み、そして失敗の軌跡。双生児のような妻や協力的な友人は去り、現実感からも取り残されたような避難所にて、語りの初めと終わりが連結される。ここで「わたし」は何度も、永遠に意識の再構築を目指さなければならないのだとしたら、彼の歪な世界創造には空恐ろしさを覚える。
「わたしはわたしではない。哀れなわたしの物語よ」