サブカル大蔵経796村上速水『親鸞教義とその背景』(永田文昌堂)
先輩の僧侶が尊敬されていた先生。
その方の本を取り寄せて読みました。
公平で丁寧な言葉が心地いい。
病気を経験された方の文章なのも伝わる。
私は、親鸞教義とは聖人の宗教体験の組織化・論理化に他ならず、まずそこから出発すべきであると考えている。p.2
親鸞はどう感じたか、を想像していく。教団はそれを、その時代なりに落とし込んでいくということなのだろうか。
仏教で、自分が善い行ないをするよりも、他人の善を一緒になって喜ぶ(随喜善という)ことの方が功徳になると説かれる。p.17
結婚式前にしずかの父が言うように、のび太はこれを本当にできたのだろうか。
「釈尊が説かれたのであるから間違いはない。だから弥陀の本願に間違いはない」といわれるのでなくて、「弥陀の本願がまことであるから、釈尊の説かれたことにまちがいはない」といわれるのです。p.53
歴史的事実と宗教的事実というが、説得力があるのかと思いながら今に至ります。
さて、道綽禅師の釈功は聖浄二門判です。これは教学的には龍樹菩薩の難易二道判、およひ曇鸞大師の自力他力判を承けつがれるものですがp.140
七高僧の業績の区別が未だにつかないので、こういうまとめはありがたいです。だけど、それだけでレッテル貼らないように心がけたい。
ところで、阿弥陀仏という仏は、この世界に現れた仏ではありません。この世界に現れた仏は釈尊だけです。p.183
そうかあ、阿弥陀仏はこの世には現れないのかあ。だから大乗仏教では、それを如来と言い換えているのかな?
他力廻向の信心を恵まれたものは、この世の生活を軽んじたり、あなどるどころか、かえって仏法に遇う機縁を与えられた世界であったと気づかされ、活き活きとして苦難をのりこえる力が恵まれることを知りました。p.218
真宗は現世を軽視しているという他派の誤解に対する回答のような言葉。
浄土に往生して修行する必要はありません。p.235
真宗以外では「往生→修行→成仏」。真宗は「往生=成仏→還相」でしょうか。中国や日本の浄土教はそこをどう説いてきたのか、法然親鸞以外の浄土教のバリエーションも訪ねてみたいです。