サブカル大蔵経542梅棹忠夫『日本探検』(講談社学術文庫)
福山、綾部、北海道、犬山、名神、出雲。
日本の隠れた急所に足を運ぶ著者。
単行本は1960年発刊。60年前の本。
今こそ、梅棹忠夫に見えた世界を閲覧。
自分にとっては「北海道独立論」が鮮烈。
原武史さんの名解説。著作『「線」の思考』は本書へのオマージュ。
三原はダメです。あそこも備後には違いないけれど、あれは芸藩です。私はこの答えに強いショックを受ける。藩はよみがえる。藩は生きているのである。藩はまだ人々の心の中に生き続けていたのである。p.68
藩が生きている話はよく聞きますが、ここまで根深いのは北海道民にもショック。
1950年、綾部市は、日本国憲法を貫く平和精神に基づいて、世界連邦建設の趣旨を賛し、全地球の人々と共に永久平和確立に邁進することを宣言する。綾部はもはや丹波の綾部ではない。京都府の綾部でもない。世界の綾部市であることを宣言してしまったのである。p.82
世界の◯◯の嚆矢か。最先端の綾部。昔山陰本線で20分だけホームに途中下車しました。今度街を歩いてみたいです。
カオダイ教、この特異な新興宗教もまた大本と密接な関係がある。1935年、大本からの死者はタイ・ニンを訪れ、提携の条約を交換している。p.132
ベトナムに行った時、カオダイの寺院に潜入してきました。一つ目本尊でした。
私は北海道通って樺太に行ったことがある。私はその時札幌を素通りした。樺太と言う存在を考えに入れる時、北海道は単に通路でしかなかった。開拓前線は樺太にあった。札幌はいわば中継基地に過ぎなかった。ところが今や樺太は無い。北海道は、そして札幌は、それ自身が終着駅化したのである。戦後の札幌は、大都市として成長するとともに、北の果ての都と言う性格をますます強めてきたのである。そして北海道そのものも改めて日本の新しい辺境と言う役割を担わされることになった。少なくとも他のすべての辺境を失った内地の人たちは、北海道に新しい辺境の夢を追い始めた。奇妙なことだが、北海道の辺境化は戦後に始まるのである。戦後になってから初めて異国北海道とか辺境北海道などと題する単行本が道内で続々と出版されたと言う。北海道は自らを異国に仕立てることによって、戦後の日本における自分自身の新しい価値を発見しつつあるようだ。それは充分、内地において北海道観光ブームも巻き起こすに足るものであった。p.157
中野美代子さんも提言していた北海道の観光の虚言と綻び。それはコロナ禍で露顕したかもしれません。樺太があれば、北海道は今の青森の位置づけで、北海道がなければ、陸奥の青森が北海道になっていた。
朝日新聞北海道支社のマークに朝日の端を持って立つ熊と言うアイデアは、札幌人の間では最も評判が悪かったと言う。熊やアイヌは、北海道人にとって、所詮内地向けの観光用のシンボルでしかない。自分自身を、本心からそういうものになぞらえる気持ちは全然ないのである。本心は、思考の主流はむしろどこまでも内地との同質化にある。p.158
痛烈。北海道民に読んでほしい。これ、やはり原武史『線の思考』の旭川編の筆致と通じます。
実験は確かに成功した。わずか1世紀の間にこれだけの成果を上げたと言う事は、世界の開拓の歴史においてもおそらくは驚くべき成功と言うべき部類に属するだろう。p.184
世界史に残る〈北海道開拓〉。誰のため?国家のためか。
日本の思想史の上で、北海道と言う土地は際立った性質を示しているように私は考える。それは中央の思想界から離れたところで、北海道の土地そのものに関した独特の思想を、この土地ははぐくんできたからである。北海道思想は存在するのである。p.185
北大の先生もそんな話をしていましたが、今や学長問題を見ても、国直轄でしょうか。独特の気風は北海学園のチームナックスの方が受け継いでいるのかも。
河野広道氏は強烈な北方文化主義者である。その情熱はついに凝結して終戦直後に北海道独立論を唱えるに至る。p.193
北海道独立論。今や語る者なし。だからこそある日マグマのように噴火するかも。
しかしこれらエリートたちの主張と努力にもかかわらず、歴史の現実においては、北海道民衆の大部分は、異質主義の道を歩まなかったようである。かれらがもたらしたものは、むしろ反対に、内地との同質化の傾向であった。その後の北海道の歴史はそれが官僚理想主義の民衆レベルにおける挫折の歴史であるとさえ言うことができる。p.195
テレビ局編成や言葉も東京直結。それが喜びというか誇らしげでもある私でした。
明治以降の北海道は実は二重の構造になっている。明治以降の開拓を作り出した新しい文化圏を大陸文化圏と呼ぶならば、それに先行して、もう一つ沿岸文化圏が、既に存在したのである。内陸文化圏はどちらかと言えば官製の文化圏であり、それは明治の中央集権的官僚体制と深く結びついている。それに対して沿岸文化圏は自由なる個人のレベルでの民衆の文化圏である。2つの文化圏は今日においても存在する。私たちはしばしば北海道の言葉を標準語に近くて分かりやすいと言う。それは札幌などはなく文化圏に関する上日であるしかし北海道にはもう一つ浜返弁と呼ばれることばがある。それは、よほど東北弁に近く、われわれには分かりにくい。わたしは北海道を旅しながら、汽車の中でしばしばそれをきく。話し手は、一見して都会風ではない。あるいは近代風ではない。しかしそれこそは、官僚開拓が始まる前に北海道に土着した、沿岸文化圏の光栄ある共通語であったのである。p.205
本当に梅棹忠夫はすごい。汽車で旅することで、道内の内陸と沿岸の、歴史・言葉・気風が異なることを察知した。他地域と往来する機会のない道内の人よりもわかっている。
松前藩には参勤交代がない。コメが取れない土地。藩士は知行を漁業権、交易権というかたちで受け取った。武士とはいいながら、漁師か商人かわからないような存在だった。江戸にもないにぎわいと称せられた。それは、この北辺に作られた、日本史上例のない新型のコロニーだった。松前体制は、日本近世史上いろいろと考察にあたいするものを持っているとわたしは考えている。それは、厳しい鎖国の世にあって、めずらしく外に向かって開いている。アイヌを仲介にして、大陸との交易はおこなわれ、漁場、交易、砂金、伐材の利を求めて、民衆は前進してゆく。しかしそれは、内に向かっては、とざされた体制である。中央に対しては、松前は秘密主義であり、分離主義である。薩摩にやや似ているが、薩摩は日本の支配者たろうとする中央志向的野心家。松前にはそんな野心はない。純粋な遠心的な分離主義者である。p.206
松前藩再評価!たしかに日本史の枠を超えた存在。
秘密、無能、非人道的と、松前藩の評判が悪いのは一方的な見方である。p.207
ロシア人の手記を読むと松前藩の人の柔軟性が際立つ。交渉能力の豊かさは、今の日本人より格段に上だと思います。
面白いことは、北海道には、中央権力を土着化させる不思議な力がある。新官僚たちがここに乗り込んでくるときは、傲然たる中央の使者である。しかし、彼らはやがて現地化し、北海道のために働き始める。中央は、北海道のとりこになって分離主義的傾向を示し始めた現地機関に業を煮やして新しい中央の使者をおくる。北海道の歴史はその繰り返しである。p.214
まさに現知事もその路線。
北海道開発庁の出現。出先機関として、北海道開発局ができる。土着化し、北海道のとりこになった道庁に代わって、新しい中央の使者として君臨する。p.216
地元でも〈開発〉という響きのパワーはすごくありました。
道庁の係長で組合の委員長だった田中敏文が北海道知事になり、社会主義政権が成立。東京は北海道を目して、満洲のかわりとしかみていない。北海道第一主義の田中知事道庁と開発庁の間に緊張が生まれた。p.217
これが社会党が強い北海道の始源か。
北海道の知事は中央に対しては中央志向の顔を見せ、道民に対しては北海道志向のポーズをとらなければならない。それが可能な人物。町村金五は自民党の切り札と言われた。p.218
歴代自民系知事も踏襲。同質・分離という北海道の政治方式。
中谷宇吉郎は、1957年文藝春秋に、北海道開発に消えた八百億円ーわれわれの税金をドブに捨てた事業の全貌、という論文を書いた。p.220
まさか中谷博士が文春砲を…。
日本モンキーセンターと、もうひとつのグループ。ニホンザルを実験動物化する試験研究、という申請。もともとサルは実験動物としてよく使われていた。p.291
実験動物と猿。
ともかくも、馬車がなかったことが重要なのである。日本では、道というものは車を通すためのもの、という観念が全く欠けている。p.351
その名残りが道路での歩行者事故か。
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