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サブカル大蔵経9 アルーペ神父著/井上郁二訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄(下巻)』(岩波文庫)
インドに絶望し、希望に満ち溢れた日本に到着したザビエルを待っていたものとは。下巻です。
「日本へ行けば、まづ国王に謁し、布教の許可を得て後、大学へ乗り込み、そこの教授たちに会って、シナや韃靼の母国たる天竺に就き、どんなことを教えているのかを明らかにした上で、凡ての人を、キリストのために獲得しようというのである」p.7
この「大学」というのは、学問研究を中心にした本山のようなものでしょうか。ザビエルはやみくもに街頭布教するイメージでしたが、最初にここまで考えていたとは…。各派本山とザビエルの問答見たかった…。
「この坊さんたちは、その寺の中に、武士の子供を沢山置き、彼等に読み書きを教える傍ら、彼等と共に罪を犯している」p.28
これ、衆道のことを指しているのかな。寺子屋が、衆道の温床だったとは…。いや大寺院の中での稚児偏愛、今なら大問題になることが半分公然とされていたのかも。
「日本人は自分らが飼う家畜を屠殺することもせず、又、喰べもしない。」p.46
飼育はしているが、屠殺しない、と。この辺り、肉食は滅多にしないが、動物はあふれていた環境が伺えます。
「都の大学の外に、尚、有名な学校が五つあって、その中の四つは、都からほど近い所にあるという。それは、高野、根来寺、比叡山、近江である。」p.51
この「大学」というワードが新鮮。比叡山延暦寺も「大学」という切り口なら見方が変わる。道元も親鸞も日蓮も「大学生」だったんだ。
「一家族の中、主人はこの宗旨、主婦はあの宗旨を奉じ、子供までもがそれぞれにまた他の宗派に帰依しているような家庭がある。日本人にとっては、これは極めて当然のことで、各人は、自分の好む宗教団体を選ぶことが、全く自由だからである」p.97
ザビエルが体感した日本の宗教環境。よく言われる日本人の宗教に対する節操の無さは、「自由」というワードで驚きを持って記されています。
「坊さんは、五戒を守らない女は、地獄から出る道が全然ないのだという」p.99
「山口の坊さんと尼さんとは、だんだん信用を失ってきた。」p.111
当時の僧がどう民衆に関わっていたか。
「阿弥陀と釈迦は、二人とも人間ではない。釈迦は八千回も生まれた。純然たる悪魔の発明品である。二つの悪魔であるこの釈迦と阿弥陀とを始め、その他の多数の悪魔に対して、勝利を得なければならないのだから」p.113
「日本へ来る者は誰でもひどく迫害される。なぜかと言えば、いろいろの宗旨と戦わなければならないから。」p.133
これ、仏教のシステムをいい当ててるし、敵を作り悪魔に仕立てる二元的なキリスト教のシステムも露呈してるような。釈迦も阿弥陀も悪魔!というのはかなりパンクでいて今のゲーム感覚に近いような。
「神父は甚だ寒いことを覚悟しなければならない。日本の最も有名な大学たる坂東は、ずいぶん北の方に存在しているから」p.134
足利学校ってやっぱすごかったんだ。
「日本民族は甚だ戦争好きで貪欲である」p.173
「日本人は、天体の運行、日蝕、月の盈ち虧けの理由などを熱心に聞く。又、雨の水はどこから生ずるかの解答をはじめ、雪や霰、彗星、雷鳴、稲妻など自然現象の説明は、民衆の心を大いに惹きつける」p.193
戦国時代をいい表し、ゴロブニンが後年感じたように物理や天体への関心が異常に高いです。
苦労したザビエルのおかげで戦国時代にタイムスリップできた感じの読書でした。
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