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サブカル大蔵経88『ヘルダーリン詩集』川村二郎訳(岩波文庫)
三年ほど前にご逝去された檀家さんがヘルダーリンを愛読していました。枕経にお伺いした時に遺族からそのことを聞いて、すぐ本屋に行き、本書を見つけ、読み、お通夜の説教の時に引用しました。これが初めて外国人の詩集というものを手に取った縁となりました。
おお運命の女神よ 鋏を鳴らせ
わが心はすでに死者たちのもとにあるのだ!p.13
詩というのはなぜ大げさな物言いなんでしょうか。もう死者と仲良しなんですね。
若い日々には、朝は心楽しく、夕べとなれば涙にくれた。年を重ねた今は、疑い惑いながら1日を始めるのだが、その終わりは、清らかさに満ち晴れやかだ。p.23
生きていかなければならない1日。涙に始まり、晴れやかにおさまる。
私はどこへ行くのか?人間は働き報酬を得て生きる。労苦と休息が入れ替わり、誰もが満足している。なぜ私にばかり胸に刺さったトゲが眠らない?p.34
「なぜ〈私〉だけ?」という心情を吐露するという神経。
私も昔は幸福だったが、つつましい生は、薔薇のように移ろいやすい。ああしかし、なお私に残された、優しく、咲き匂う星は、しきりに昔を思わせる。p.37
過去にしか希望なはい。それを糧として今を生きるということか?
だからこのままであれ。地上の子、私はどうやら愛するように、悩むように作られている。p.55
悩んでいいんだ。という自己正当化。この世は苦なり。仏教とドイツの近接?
夜といっても、ドイツのロマン派に固有の、夜にこそ生の源がある、光の世界を離れて夜の闇に沈み込もう、といった夜への渇仰とは、いささか趣をことにする。夜はやはり、昼と光の欠如であり、窮迫の時であり、じっと耐えつつ新たな神の到来を待ち望む時である。その苦しい待機のうちに神は主人の前に変容した姿を差し向けながら示現する。p.235
解題を読んで初めて〈ドイツロマン派〉という用語を知りました。荒俣宏さんの著作で触れられていたような…。
ヘルダーリンの陥った狂気p.259
狂気というのは、時代なのか、本人の歴史なのか?
ヘリングラート曰く、ゲーテに比べればヘルダーリンは小さいし、狭い。しかし比類をを絶する内的な充溢があり外は局限されていても中には無限の成就がある。p.260
この時代のゲーテ一択のドイツ文学。その影響力と弊害。
正気と狂気のあわいに、かろうじて絞り出された言葉が、かつて知られなかった衝撃力を持って読者に落ちかかるのである。p.262
それが檀家さんにも伝わっていたんだな…。私も出会うことができました…。
ドイツというヨーロッパの辺境。今でこそEUの中心国ですが、ずっとコンプレックスを抱えていたと思われます。王道がイタリアやフランスやイギリスだとすれば、ドイツはサブカルチャー。そのドイツが王道に躍り出たバッハとゲーテとカントとグリム童話。その地下水脈かもしれないドイツロマン派。このロマン派って、田舎者の夢想?ナチス的純粋さに繋がったりしてる?
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