サブカル大蔵経103 礒崎純一『龍彦親王航海記』(白水社)
澁澤龍彦とその時代と周りの人の物語。本書で描かれる澁澤龍彦のピークは鎌倉時代初期と裁判前後でした。夢の宇宙誌の頃はもう高揚なき時代…鎌倉梁山泊解散、再婚、だんだんと賑やかさが薄れ寂しい感じでした。それにしても、漱石かトキワ荘かというくらい人を受け容れる澁澤に驚く。
澁澤は底なしのホスピタリティ。p.280
孤と群。澁澤龍彦といううねりが始まる。
浪人期間は、新太陽社のバイト。モダン日本の編集。編集長は吉行淳之介。久生十蘭の引越し手伝い。今日出海から翻訳下請け、シムノンの霧の港。一般読者にわからなければだめだよ。p.68
澁澤龍彦のバイト時代。編集、校正、吉行、久生、今日出海。文体。
彼女・山田美年子、砂澤ビッキと結婚。ビッキは夏阿寒湖・冬鎌倉。p.81
北海道との接点、砂澤ビッキ。
新宿紀伊國屋での矢川澄子とのデートに、洋書コーナーで同じ本サドを注文していた松山俊太郎と出会い、風月堂でおしゃべり。p.107
松山俊太郎、現る。
無罪を勝ち取りたい弁護団に対し、澁澤は、現存の法秩序そのものを否定することに、サドの著作を翻訳出版する意味を見出していた。p.156
澁澤をラディカリズムとして捉えたのが石井恭二の現代思潮社、アマトゥールとして捉えたのが矢貫昇二編集の桃源社。p.162
裁判前後の澁澤の世間への受け入れられ方が興味深い。
種村曰く、澁澤は、欧米の理論的な流行に終生かぶれなかった。中心にいるものに興味を持たないというのは、やっぱりドッペッたから。生涯、澁澤の文章が、難解な思想青年の混ざったようなものからほど遠く、ふつうの人にわかりやすいきわめて平易な文章だったことの根底も、この2年の浪人期間の存在に置いている。p.72
著者は種村季弘をかなりいじるのだが、併走者としての種村の澁澤評は真打ち感ある。
松山は大学で種村季弘と知り合うと、足穂の『彼等they』を求めて「theyはいいゼイ」と言って種村に進呈したところ、種村の方から弥勒の存在を教えてくれたという。p.173
松山と種村は、石堂の奴をもう少しイタブれば発狂するのではないかと、二人して「石堂淑朗発狂促進委員会」を結成。p.206
種村&松山コンビ、最高!この二人が今の時代いたら、すごかっただろうなぁ。
矢川と澁澤の離婚の裏面に巣食う要因は、子供を持つことを拒否する澁澤が避妊には自分でなんの責任も取ることなく4度も堕胎させたことや、いつしか母子関係のようになってしまったことなど。p.257
澁澤の手帖にサッポロ一番ラーメンと記されていた。母が就寝中の夜食に、生まれて初めて自炊をしたか。p.263
澁澤龍彦の妻と母。
血と薔薇時代の友人たちもそれぞれが散り散りに古巣に帰った。p.301
この一文が寂しい。
立候補事前運動した人に、そういう男はこの部屋にいては困る。帰れえッ!p.334
怒鳴る澁澤。
この時期、澁澤は、群書類従、続群書類従、続々群書類従、廣文庫、大語園、古事類苑、日本随筆大成を軒並み揃えている。p.370
私も大学の先生に、広文庫と古事類苑を読みなさいと言われ、古書店で広文庫買いました。学生時代一番大きな買い物でした。今でも部屋に眠っています。
三島が亡くなってからヨーロッパ的な二元論にいや気がさした。p.372
三島の死の影響…。私には昔はこの二人は繋がらなかった。なんで『血と薔薇』に三島出てんの?と思ったくらい…
澁澤の本を文庫になぞするな、怒りの投書が河出に舞い込んだ。p.411
学生時代、澁澤龍彦の河出文庫と中公文庫を揃えることが、自分の本棚の満足のひとつでした。(もうひとつは教養文庫)
[鹿島茂]澁澤龍彦とは、右翼も左翼も、正統も異端も、権力も反権力も、その前にあっては、全く意味をなさなくなるような、絶対的に自由な存在だった。p.424
たしかに。その影響受けてるかも。
[浅羽通明]澁澤龍彦を選択することとマルクスを選んだことは似た世界観。一大宇宙だった。彼らを導く思想家だった。p.424
史観か…。たしかにもう30年呪縛されてるのかもしれません。なんである時代の人たちはマルクス史観に影響されてるのかなと思ったけど、自分は澁澤史観のもとにいたんだなぁと初めて気づかされました。
浅田彰登場に、種村は、あんな奴が出てきちや、俺たちはもう抹殺されたようなもんだなと、にやにやしていた。p.432
種村のジャーナリズムアンテナ。
澁澤龍彦は死んだ。享年59、真珠のような大粒の涙がひとつ左の目からこぼれて、一瞬の死だった。その死は読書中の出来事である。p.483
私もこうやって死ねるだろうか?
通夜振る舞いは精進料理屋の鉢の木。葬儀は東慶寺。松山「俺は葬儀はキライだ!」p.485
一昨年、北鎌倉のお墓にお参りに行きました。
私にとってのサブカルブッダは澁澤だったのかなと今思いました。