サブカル大蔵経647竹宮恵子/内田樹『竹と樹のマンガ文化論』(小学館新書)
初読の時は、内田樹をもってしても噛み合ってない印象でしたが、再読、再再読して、貴重な引き出し合いと認識しました。
竹宮惠子を教授・学長にまでさせたモチベーションは何だったのでしょうか。
大正世代の戦後文学の書き手たちが敗戦前最後の1年で死んでしまった結果、明治生まれのフィルムメーカーと昭和生まれの漫画家たちが戦後文化の再生を担うことになった。漫画家たちは皆10代でプロデビューしています。(内田)p.19
戦後の文化を担った漫画家たち。
締め切りが作品力を上げてきたのは事実でしょうね。(竹宮)p.27
週刊誌・月刊誌という日本の独自性。
まさに「集合知」ですね。漫画ってそういうものだと思うのですよ。(竹宮)p.39
技法・内容。個より集団性。
イラン?みんなネットで漫画を読んでいるのです。(竹宮)p.50
小説以上の漫画の国際性。
僕の意見をまるで自分の意見のように思ってしまったと言う人が出てくればくるほど嬉しいわけです。(内田)p.55
著作権を放棄した故、教科書の試験問題にも数多く出題されるようになったと。引用という文化。知の問題の根本的な姿勢。
大泉サロンでは来る人みんなにあなたは「赤毛のアン」派か、ケストナー派か聞いてました。萩尾望都さんは赤毛のアン派でしたね。(竹宮)p.78
昨今話題の大泉サロン。
少女漫画家たちはそれを拒絶した。男たちはこの10年間の反米の戦いのことを忘れてしまったようだけれど、私たちは忘れない、と。男たちがアメリカに屈服して戦いを止めるなら、私たちが男たちとは違う仕方で戦いを継続する、と。竹宮先生が『風と木の詩』で描いたのは、まさにアメリカのハイスクールでは絶対に生きていけない男の子だったわけです。アメリカ社会が全力を挙げて否定しようとするはずの文化的アイコンがあるとすれば、ジルベールはまさにそれなんです。でも、竹宮先生はそれを挑発的にも圧倒的に美しいものとして提示した。この反骨性は凄いと僕は思うんです。(内田)p.90
少女漫画で何故ヨーロッパが描かれたのか。内田樹先生の卓見。
萩尾望都、山岸凉子、竹宮恵子が一緒に1ヶ月ヨーロッパ旅行したせいで頭の中が全部ヨーロッパになっちゃった。それはすごいよ。日本少女漫画史上の決定的事件ですよ。(内田)p.97
たしかに漫画史に残るエポックかもしれないが、この時の三人と増山法恵さんのそれぞれの気持ちはどうだったのだろうか。
漫画は超個人的な制作物ですから教科書的に教えられるものではない。(竹宮)p.113
漫画もお笑いも。学校への疑念。故に職人養成としての学校か。
どんどん無駄を省いていく。それができるようになると漫画家として一人前。読者にどのぐらい預けられるか。(竹宮)p.159
一本の線を描けるか。
学生たちの描くものそうなんです。読者に対する信頼も形もない。でもそれも当たり前なんです。学生たちが描く力を持っていないのは読者を持ったことがないからなんです。(竹宮)p.233
一人の読者のために書く。
漫画家はみんな個性個性って言いながら自分はここしか書けないと分かっているのです。とにかく漫画家一人一人が自分の守れる範囲をピンポイントで持っている。だからお互いの良さを認めないと友達にもなれない。友達になれないと、漫画界の一員にもなれない。本来なら、編集者もそのチームの重要なメンバー。作家も編集者も読者も皆含んだ巨大なる運命共同体があること。それが漫画の最大の強さの秘密なんだ。(竹宮)p.250
〈漫画界〉という言葉。