サブカル大蔵経89湯山玲子『男をこじらせる前に』(角川文庫)
湯山玲子の慧眼。一昔前の『サブカルチャー年鑑』を読み返したら、ベストセラーを次々予言的中させていた。本書でもマツコやおぎやはぎの隆盛を当ててきた。社内競争やマザコンから国家まで、〈男性〉をこれ以上ないくらい暴く。本を読んでいてこれほど恐怖を感じるのも珍しい。あとがき、武田砂鉄、この方しかいない。ありがとう。
出席・金・女を離れ、男たちはカフェを作り始めた。カフェ男。一見こだわっているようで、実は受け売りというカフェセンスの大衆化。岡山県の山の中のカフェにサンタマリアノヴェッラの石鹸があつた。p.36
カフェ男子…。私も店や喫茶店巡りは好きですが、このカフェ的なものには違和感を持っていました。その言語化。
バンダナ男がピザを焼く。そこに車を飛ばしてわざわざやってくる。p.37
里山主義とは資本主義の極北なのかな。
おきやはぎはなぜモテるか。矢作の物言いのおかげで小木が不思議なオーラを纏い出した。小木はいつも堂々としたもの。どこ吹く風。珍しいパターン。p.53
実は小木も矢作に合わせていると思う。その辺が小木の類いまれな器用さ。
おぎやはぎの何か?の先には同じように男性に伝統的に押し付けられた男らしさや男の甲斐性へのうざったさや苛立ちへの抵抗を私は感じてしまうのだ。p.57
吉本的な集団スポーツへの見切りもあると思う。最近は矢作の方が男性たるものを小出しに吹き出している気がするが。
おぎやはぎに秘訣があるとしたらそれは、お笑い業界と言う仕事の共同体から意図して健全な位置を保ってきたことだと思う。健全と言うのは、もしこの世界で失敗しても、自分の人生が損われるわけではないといった、仕事なんぞでは損なわれない人間としての自信だ。p.62
それでいて彼らは、実は漫才に対してストイックだとの裏話もよく聞く。
男の生き方で今最も成功からというのはビックになりたいと野望だろう。おぎやはぎの登場以降芸人たちはライバル心や派閥への忠誠をむき出しにすることをやめ、お互いをおぎやはぎの芸風の如くに褒め合い、仲良くするというモードに変化した。p.62
たしかにコンビ仲いいの増えましたね。でも、矢作の小木に対する褒め方は、思いもよらない角度からでも褒めきるから、誰も真似できないものだと思う。小木も突っ込まず矢作に身を任せる。
とは言え、彼らは自分自身の芸の品質に大変厳しい。ベテランの鶴瓶をして矢作は自分のリズムを絶対崩さないからね。これをリアルな男の強さと考えずになんとする。p.65
さすが、著者の目利きは抜かりない。
マツコデラックスの強さは何か。おのずと孤独が浮き彫りになる。孤独の感情を恐れずに把握し、それをなきものとせず親しんでおくと、結局のところ自分の居場所は自分自身と言う存在にあるのだと言う考えが至る。孤立ではなく孤独。この2つは同じように見えるが、天と地ほど違う。孤独は孤立しないための最初にインストールしなければならない人生でマル秘の感情であり技術なのである。p.85
私は学生の時に「クイアジャパン」の表紙で初めてマツコの存在を知りました。その時のインタビューの
インドで、日本人男性の貧乏旅行者と話すと、現地の人に騙されないで、いかに俺はものを安く買っているのかと言う自慢話ばっかり。情報交換するときに必ず出る言葉が、それ、ボラれたよ。俺が偉いのマウンテンをしかけてくる。旅と言うシチュエーションは自分のそれまでの人生のデーターベースが役に立たないところに放り込まれることを意味する。p.140
うん、私の周りでも、そこから抜けた人が旅を楽しんでいる感じがします。
人生を軽量化しない。僕は100本以上の映画を見ています。実際100本見たとしてもピントの外れた紋切り型しか述べられないマニアは相当に多い。好きでも嫌いでもオリジナルの発見ができるかどうかが重要なんですよ。感情を介して表現することから始めてお得意の論理思考を重ね、言葉にする訓練をしてみたらいかがだろう。p.150
私も、読書数しか誇るものないかな、とそれを披露したりしようとした時に限って、こういう言説に出会えて踏み止まる。
ダークな母親パワーに気を付けろ。このパワーから逃れるのは大変なことだ。お母さん、悲しい。息子を加害者に見立て罪悪感を抱かせて自然と思い通りにしようとする無意識の支配ワードだからだ。p.175
母親という最大の策略家。教育ママみたいなわかりやすい方がマシかも。
息子が代理母で子供を作って、ママにプレゼントして、2人で子育てする。常識的な私の心はこういうケースに正直おぞましさを感じるが、生殖に関する医学の進歩は急速で子孫を残したいと言う根源的な人間の欲望に準じており金も投入され実現された後にそのおぞましさが当事者間で割合あっさりと霧散することを私たちは知っている。p.182
この辺のおぞましさと、それが当たり前になる未来は、村田沙耶香『消滅世界』で描かれているものに近い。
今どきは姑が息子カップルの人間関係の中に仲間のように入って2人を支配し、結果息子との恋人関係を永続させるように図るのである。p.184
逆に原始的な近親相関をイメージさせる。現代の家族は、将来の人類学の教材になるかもしれない。
競争モードからは生まれないインターネット時代の勝者。p.195
競争しないというマウントの取り合い。男性的なものを捨てたようでいて、捨てきれない私がいる。
良かれと思ってやったことが相手に受け入れられない。異文化同士のコミニケーションではそういうこともあり得る。相手にわざわざ合わせたのにちょっとの違いに怒るなんて自分勝手すぎると言う怒りモード、その理屈は通らない。p.250
私も、言ってしまいがちですが、〈合わせてあげたのに〉は、仏教でいう〈我慢〉で戒めの対象ですね。
国と言うものは、つくづく男のものだと思う。女は嫁いだらその家に従う貨幣と同じ。p.261
国家という擬似家族。
世界の村で発見、こんなところに日本人、と言う番組。そのほとんどは、現地の男に嫁いだ女性である。p.262
なぜ男は外に出られないのか。狩猟の縄張りは、冒険とは違うからか?狩猟は保守そのものかもしれない。