学とはなにか:『総合ー人間、学を問う』まであと4日
MLA+研究所代表の鬼頭です。昨日、何とか初回からの伏線回収ができました(笑)。
昨日出したキーワードは、「今までとは違うなにか」です。そして、もしそれを追いかけるとするなら、「新しいもの」だけ追いかければよいのではないか?という話をしました。
さて、MLA+研究所がお送りする『総合ー人間、学を問う』は、こうして「新しいもの」を求める旅へと、いざ、漕ぎ出でるのでしょうか?
そういう方向性の探究も有り得るとは思います。
例えば、総合人間学会でもご活躍の、上柿崇英さんの主著は、現代人固有の“苦しみ”に寄り添うための助走を、かなり緻密に、つまり過不足ない書きかたで展開されておられます。
(様々なご事情があって)今は、上柿さんのHPで全文読めますから、〈要約〉を戒めるこの連載において、なるべくして大著となった上柿さんの思考の〈結晶〉を、敢えて要約する野暮なことは致しません。
ただ私が受け止めた限りで、ちょっとだけ書いておくと、現代の人間にまつわる諸問題というのは、人間の「自縄自縛」の果てなのかなあという気が致します。
ちなみに、上柿さんはご自身でこの本に関する用語集も作成されておられるます。
ですから本を読まれる途中で迷子になったら、こちらの〈方位磁石〉を用いられるとよいのではないかと思います。
時にうんうんと頷きながら、時に他の可能性はないのだろうかと疑いながら、あくまでご自身で、上柿さんの思考に、〈同朋人〉として歩む。
私は、この本はそのようにして読まれるものだと理解しております。
https://schs.gendainingengaku.org/book1_faq.html
加えて、上柿さんは既に、現代人の“苦しみ”に寄り添うための人文学とはなにか、という方向に思索の舵を切られておられます(ただし、この道は私とは異なる方向性です)。
「ポストヒューマン」(従来の「人間」という言葉では語り切れない現代人のありかた)や「人新世」(人類の影響で「自然」が変わってしまったことに目をつける時代の区切り)、「加速主義」(イケイケドンドンによって世界が変わるという考えかた)という言葉を聞きかじっていて、この「問題」について考えてみたいという人は、以下をご覧になられると良いでしょう。
しかし、現代人固有の”苦しみ”への処方を模索する上柿さんもまた、『〈自己完結社会〉の成立』において、
>おそらく〈自己完結社会〉の成立には、古の時代から脈々と繰り返されてきたある種の連続性と同時に、過去の時代とは一線を画した現代固有の特殊な事情とが両方とも深く関わっている。
と書かれておられます。
「新しいこと」、この場合は「現代固有の特殊な事情」をクリアにするためにも、「古の時代から脈々と繰り返されてきたある種の連続性」や「過去の時代」が、押さえておくべきことになっていることに注目しましょう。
>「新しいもの」だけ追いかければよい
という考えには、暗に「古いもの」が前提されていて、かつ「新しいもの」は「古いもの」よりよいものだ、とする考えがひそんでいます。
ちなみに、この反発から、
>「古いもの」はよきものだ
と考えることも、暗に「新しいもの」が前提されていて、「古いもの」は「新しいもの」よりよいものだ、という考えが隠れているという意味で、
この2つの考えは、コインの表と裏の関係です。
少しはなしの方向を変えましょう。
皮肉なことですが、何かを学ぶためには、何かを知っていなくてはなりません。
この連載ではたびたび、『昼も夜も彷徨え』のはなしに戻りますが、幼いころのマイモニデスは、伝統的なユダヤ教の教育システムのなかで生きていたはずです。
厳密には儒学とユダヤ教では”雰囲気”に違いが出てくるはずですが、日本人にややなじみのある儒学で言うと、『四書五経』をまず素読で覚えたうえで、講読と会読、つまりそれぞれの学び手の解釈とその解釈に対する議論を積み重ねていくようなシステムです。
受験教育における暗記というものも、講読と会読にまで進むことを前提するなら、その段階に必要な道具となるものを、まずは身体で使えるように訓練するという話なので、そのかぎりでは非合理だとは言い切れません。
教師が一斉授業によって、学問の体系に即して何かを覚えさせることを疑問視する新教育では、「子どもの関心に応じて」ということが説かれますが、そのときに子どもに一切「知育」が課されないということではありません。
その意味で、系統主義と経験主義と呼ばれて、しばしば抽象と具体の対立というふうに理解される教育方法の差というのは、むしろ集団の学びと個の学びの対立としてとらえたほうがよいのかもしれません。
『昼も夜も彷徨え』に出てくる小説の登場人物としてのマイモニデスの頭を悩ませた”悩み”というのは、直観的あるいは直感的には「違う」と思うことを、いやいや「違う」と主張する難しさです。
現代の哲学には「概念工学」という領域が流行しています。
一言でいえば、現代人に必要な概念が無ければ、新しくつくってしまおう、ということです。
先に紹介した上柿さんのいとなみも、「概念工学」の側面をもちます。
というよりも、時代に悩める人に即そうとするかぎりにおいて、どのような解釈も、「概念工学」の側面をもつと言えます。
日本で言うと、法然—親鸞がたどった道がそうです。
彼らが考えた問題というのは、乱世というどう頑張っても宗教的に救済されない時代に生まれ落ちた人の救済です。
〈常識〉的に考えれば、修行によって宗教的に救済されるのだと考えるところですが、彼らは修行が為し得ない人は宗教的に救われないのだろうか?と考えていたわけです。
ネタバレになるので、詳しくは書きませんが、「迫害」の一生とも言える過酷な生を生き抜いたマイモニデスをとらえた関心も、乱世において宗教的に救済が難しい人もどのように救済を得ることができるのだろうか、ということにあったという意味では、法然—親鸞と重なる問題意識があったはずです。
しかし、です。
使い勝手の「概念工学」ではありますが、ちょっと立ち止まってみなくてはなりません。
「概念工学」で得た「概念」の正しさ、というのは一体、何が担保するのだろうか、という問題です。
論理として破綻がないことでしょうか、あるいは行為の結果を後押しすることでしょうか、または時代の支持を集めることでしょうか。
マイモニデスは、当時のユダヤ教学者の〈通説〉に抗った人です。
けれども、その抗いが直観的あるいは直感的である限り、彼の恣意的な思い込みの域、あるいは独善的な正義の域を出ないという問題があります(かと言って、ユダヤ教学者の〈通説〉の正しさが確証されるわけでもありません)。
一神教になじみがなければ、偶像崇拝というのは、具体的な〈物〉を信じることや多神教の反対としてとらえるのではないかと思いますが、自分を信じること、ある概念に固執することも、偶像崇拝になってしまいます。
何故かと言うと、正しさを確証する最終審級が、自分の判断や既成概念になってしまうからです。
そして、この正しさを確証する最終審級が、学者間の〈合意〉や〈承認〉におきかえられたとしても、自分に代わって、「われわれ」を崇めるようになる罠からは抜けられません。
この記事で考えていることは、もし「今までとは違うなにか」を追いかけるとするなら、「新しいもの」だけで十分なのか、という問いです。
ここまでの話の展開から、察しがよい方は、私が「新しいもの」だけではダメだという結論を導くのだろうということは、既に見えていることでしょう。
その1つの理由は、「新しいもの」の正しさを支えているのが、「共時性」、つまり「いま」が上手くいくことに掛かっているからです。
しかし、私はだから「古いもの」が素晴らしいということも言いません。
何故なら、もし「古いもの」が今、残されているそのままの形で良いものであるならば、何故その「古いもの」を捨ててしまったのかが、説明しきれないからです。
「古いもの」も、今、残されているそのままの形では、人口に膾炙しない、つまり現代人の課題に応えられていないという事実自体は、認めなくてはなりません。
だから私がここで言いたいことは、一言で言うと、「今までとは違う何か」を見つけるには、「今」が見出していない「過去」におもむくことを通じて、「今」とは違うどこかへと歩むことが、「学」ということなのではないか、ということです。
『論語』為政の「溫故知新」の「溫」は「習熟」ではなく、「”洗い落とす”」と読まねばなりませんが、「”洗い落とす”」ためには、当の”洗い落とす”支配的な価値観にもよく通じていて、かつその価値観が直観的あるいは直感的に「違う」と思えていなくてはなりませんから、まねび(真似)=模倣による変化の兆しが「学」なのだろう、と私は思っています。
https://hayaron.kyukyodo.work/syokai/isei/027.html
では、まねび(真似)=模倣による変化は一体、何の拍子に、訪れるのでしょうか。
それでは、また明日(も続けられることを願って)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?