人間であること:『総合ー人間、学を問う』まであと1日(の少し手前)
MLA+研究所の鬼頭です。ついに前日(ちょっと前)となりました。参加のお申込みは一旦は、明日まで一旦、おしまいです。
「総合」と「学」あるいは「知」については話をして参りましたが、「人間」については、はなしをしてきませんでした。
いきなり「人間」について考えよう!、と言われても、まあ困りますよね。
少なくとも、私は困ります。
「総合ー人間学」であれば、なおさらです。
伝統的には、「人間学」と言うと、自然/文化人類学、生物学、医学、教育学、哲学との関わりが深いと言えそうですが、そもそも学問分野で人間について考えない分野を探す方が、難しいのではないか、と私は思っています。
人文学は基本的に、どこかに「人間」がいますよね。社会科学も基本的には人間「関係」を扱わざるを得ません。医学・歯学・薬学・看護・保健・福祉・スポーツ・家政、この辺りも「人間」抜きに、というわけにはいかなそうです。
イメージ的には、何となく自然科学は上に挙げた学問と比べると、「人間」色が薄いでしょうか。少なくとも、実際の研究で「人間」とは?と考えなくても、研究が成り立つ分野はありそうです。
ただ、農学が農林水産業と関わる限りにおいて、「人間」とは無縁ではないでしょうし、工学もまた「ユーザー」や「技術者」と切り離せないという意味では、やはり「人間」と無関係とまでは言えないでしょう。
そのように考えると、理学が相対的には「人間」と遠そうですが、観察者または観測者という形で、「人間」が問題になることはありそうです。
例えば、物理学で時空間について考えるときには、観察者または観測者を問題にすることがあるかもしれません(ロヴェッリは関係論的ですが、人間不在でも出来事があるとは考える人です。しかし、人間にそう見えるのは何故か、とも考える人です)。
「総合」的に「人間」について考えるということは、「学際」的に「人間」について考えることが必要条件ではある(十分条件ではない)というはなしはすでにしたと思いますが、多くの場合、人間と完全に切り離して学問することが難しいとは、言えそうです。
「人間」についての学の困難の1つは、人間が人間について語る際の、「自己言及」に起因します。
つまり、「人間」を対象とする当の観察者や観測者自身が「人間」であるという事実です。
自分が「人間であること」を抜きに、「人間」について語ることは、端的に不正確、もしくは虚偽です。
もっとも、自分の「内面」との対話だけではなく、「接触面(表面)」にも問われるべき「自己」が在るという意味では、自分の「中」に対してのみ、誠実であれば良いという話ではありませんし、外に「誠実そうな」自己を見せえすれば良いという話でもありません。
伝統的に言えば、天は細大漏らさず見ているから、という説明になり、それがまだ信じられる人はそう考えて頂いて差し支えないのですが、そのような語彙を使わないとすると、意識には容易には昇らない自分の分身がそのさまをありありと見ているからです。
もう1つ考えなくてはいけないのは、現代の人間についての考えかたは、知らず知らずのうちに、ヨーロッパ(そしてアメリカ)の”人間”観に多くを負ってしまっているという事実です。
例えば、「人権」という考えかたがそうです。
特に、ヨーロッパ(そしてアメリカ)の人間観のなかでも主流ではなかった人間に関する考えかたや非西洋圏における〈人間〉に関する考えかたに触れるとき、あるいはある時期までは”人間”とみなされてこなかったことを振りかえらなくてはならないときに、この事実を踏まえずに、「人間」について語ることはできません。
ただ屈折していることですが、そのような反省をもたらすのもまた、ヨーロッパ(そしてアメリカ)の”人間”観と無縁ではないことです。
というのも、ヨーロッパ(そしてアメリカ)の”人間”観を主たるものとして、多くの学問が成り立ってしまっており、「そうではなかった」学へと純粋に還ることは恐らく、一度近代を通過してしまった人間にはできないでしょうし、それを強いて目指せば、その人が望んでいた結果にはならないとも思います(とは言え、近代が世界を覆った表面の下には、近代ではないものが潜在しているはずで、その幾つかを拾うことぐらいは叶うかもしれません)。
さらに、大雑把に言って、自然科学における人間観と人文・社会科学における人間観には、少なからず溝があります。
この問題には、主観と客観、個と集団、再現性と1回限り…という問題も関わってきますが、詳しくは述べません。
自然科学において判明してきたことを人文・社会科学に活かさなくてならないという方向性もあるでしょうし、自然科学が暗に前提していることを人文・社会科学が問い直す必要があるという場面もあるでしょう(多くの場合、その「どちらか」一方の必要だけが、形而上学的に、つまり論証されないまま、強調されているのが現状ですが)。
くわえて、人間に関する知というのは、①現にそうであるところの人間について記述するのか(事実的な人間観)、②そうあるべき人間像について考えるのか(規範的な人間観)、③「善悪の彼岸」における人間について考える(宗教的な人間観)のか、雑駁に言えば、この3つの層が交わりあって、成り立っています。
このように人間について考え、語ることは、複雑なことだと言わざるを得ないのですが、私にとっての「人間学」の意味について、最後に軽く触れることで、結びに替えることに致しましょう。
私にとっての「人間学」、それはいかなる探究においても、「人間になる」ための学でなくてはならない、と思っています。
そして、「人間学」を探究する場において、その人間はまず、「人間であろう」としなくてはなりません。
この2つが「人間について」以外の、最小限の学の要請である、と私は考えます。
「人間であろう」としない人間学、「人間になる」ことを目指さない人間学というものがあり得るとしても、そのような人間学は信頼されないだろう、と考えるからです。
今回お呼びする加藤哲理さんは、開講されているシラバスにおいて、
>履修条件・関連する科目 人間であればそれでよいです、人間であることは難しいですが。
と書かれておられますが、言い得て妙だと思います。
加藤さんのシラバスの言葉を借りて、別な表現をすれば、
>他者からの「成績評価」に一喜一憂したり、あるいはその「方法」や「基準」がなければ、どうすればよいのか途方に暮れてしまう、そんなあり方から脱却すること(中略)、真摯に生を引き受けること(中略)――「生きること」や「存在すること」に、(中略)便利な「方法」や「基準」がある、と考えるのであれば話は別ですが。
ということになるでしょうか。
https://syllabus.adm.nagoya-u.ac.jp/data/2022/03_2022_X320000300690.html
加藤さんの表現が端的ではありますが、私の見るところ、同じく登壇者である西田喜一さんはこのことを、自身のお仕事である大学の地域サテライトキャンパスの運営を通じて、別様に表現されておられます。
>(筆者注ー単に、人を集めるのではなしに)集った人同士をつなぎ、交流する努力を重ねなければ、そこに人と人とのつながりは生まれてきません。
https://www.wakayama-u.ac.jp/_files/00646437/3kishiwadasyoho.pdf
あるいは、同じく登壇者の大橋恵美子さんから以前お聞きした言葉を踏まえるなら、大橋さんにとっては、看護の現場において、
>その人らしさをとことん尊重
することに尽きるのだろうと思います(言うのは易し、行うには難しですが、大橋さんは私から見て、控えめに言っても、かなりこの点に神経を注がれている方です)。
また、同じく登壇者の桃井綾子さんは、大橋さん同様、これもどこかに載っていることではないのですが、野生生物に出会ったときの感動を起点に、水族館で人と動物との関係に意を注いでいる方です(だからこそ、自分も「展示物≒見られるもの」であるという感覚で、お仕事をなさっているのだと思います)。
このように、「人間になる」ことや「人間であろう」とすることを具体的に見ていくなら、その道には間違いなく複数性、あるいは多様性があります。
このおのおのの人生における「選ばれ≠選択」はどちらかと言えば、生まれに由来するのかもしれませんし、その後どういうところで、どういう人生を辿ってきたのかに関わっているのかもしれません。
しかしその道というのは、この一度限りの人生において、真摯に何かを引き受けることによって、緩く交錯し得る歩みで有り得ることが、個々の論点にについて同意できるか否かよりも、「人間学」にとって最低要件になるのではないか、と私は考えるわけです。
このように書くと、「共通」の「真摯」さを外にある尺度によって「評価」したい人も出てくるかもしれませんが、ここで書いていることはそういう話ではありません。
私のある研究者の知り合いが、私の苦手な先行研究の整理について、次のようなはなしをしていました。
>駅で、ただ人が行き交うのを見ているだけでも面白いが、どんな切符を買って、数多ある道のうち、どのような経路によって目的地を目指すのかを描くことによって、”仲間”を見つける旅に出ること
正確な表現ではないかもしれませんが、少なくとも私が受け取った内容はこういうものでした。
ちなみに、”仲間”と書くと、”敵”が前提されるようにも思いますので、”同朋人”と言い換えておきます。
つまり、一緒に道を歩く人を探すための旅です。
「真摯」さというのは、ある熱量を伴うはずですので、強いて「共通理解」を組み立てなくても、人はそれに惹かれて集まってくるのではないか、というのが、私の見立てです。
したがって、「真摯」さのある人間学が現に成立しているなら、その集団のありかたにおいて「真摯」さの連鎖(正のフィードバッグ)が発生しているはずですから、恐らくその人間学の担い手は、敢えて意識を鼓舞せずとも、余計な力みを抜きに、「人間になる」行為や「人間であろう」とする行為がその集団において自ら見えてくるだろう、と私は思います。
例えば、『昼も夜も彷徨え』で言うと、ムスリムのサラーフ・アル・ディーン(サラディン)が、ユダヤ教徒のマイモニデスに対し、
>それぞれの胸の内に思惑を抱え、誰が敵になり誰が味方になるか、たがいをさぐりあっていた。だが、あなた(筆者注ーマイモニデス)が、あなただけが、何ものからも自由だった。宗教や民の違いなどまるでかまわず、ただ真実の言葉だけを告げた。
という異教徒に対する最大限の賛辞を贈り、マイモニデスもまた、サラーフ・アル・ディーンに、
>あなた(筆者注ー)の公正さと寛大さは、宗教の違いを越え、尊敬に値します
と応える、そのうえで、サラーフ・アル・ディーンが
>賢者が王者にひれ伏してはならない。いかなる時も、学問が権力に左右されることがあってはならぬ。徳の高い賢者には、王者の方が頭を垂れるのが、我らイスラーム教徒の流儀だ
とさらに続けて、マイモニデスの胸に熱いものがこみ上げてくるという場面に、私はその「真摯」さが伝播する片鱗を感じます。
この「真摯」さは少なくとも、上柿さんが言う「思念体」の「意のままになる生」からは生じ得ない場面だと、私は思います。
なぜなら、「真摯」さが無くても、”快適さ”を誰かが成立させてくれるのなら、「真摯」さを求めることは、余計なコストでしかないからです。
そのような「思念体」は、確かに生物的な意味でのヒトであるのは間違いありませんが、和辻哲郎の言う、間柄としての人間という意味での関係論的な人間性は放棄せざるを得ないでしょう。
人間関係が生成されている醍醐味(と理不尽さ)を放棄したうえでの人間に”出会い”の偶然性(出来事性)は、もはや不要であるかもしれません(だって、高リスクでしかないですからね)。
ただし同時に「思念体」からの示唆として私が見落としてはならないと思うのは、常に同一の人格でなくてはならないとする生、言いかえれば「一貫した自分らしさ」の生という、歴史(地理)的に特殊な成り立ちの”人間”観を、このまま継承する必要は無さそうだ、ということです(もっとも、アンチテーゼとしてある、「常に一貫しない自分」を「一貫」させるという生もまた、無理に継承する必要はない、と思っているのですが)。
端的に言うと、そのような「人格」や「自分らしさ」(あるいはその「反発」を一貫して)を「形成」しなくてはならないという呪縛でしかありません。
緩やかな意味での内的統合は今後も必要かもしれません(多分、クラウド界の思念体の「想定」というのは、ある種の結節点となるじぶんであり、積極的な中身がそこに入っているものではないように思います)が、場面ごとに、人が別の「顔」(アバター)を見せるということは、精神衛生の維持のうえでも、社会の維持のためにも、不可欠なことだと私は思います。
というのも、「人間である」ということは、アレントではありませんが、どこかに「秘匿」しておきたい面を持つものです。
内的な面において、その「秘匿」を生じ得なかったことにするのは虚偽ですが、少なくとも誰に対しても、その「秘匿」をオープンにさせる必要はありません。
何故なら、人が生物を超えた、無矛盾・無謬の存在ではないからです。
「思念体」というものが『竹取物語』に登場する月(天部)の存在であり、「愛別離苦」に伴う感情を生じ得ない精神構造を持つなら話は別ですが、脳人間という生物としての感情を引きずる限りにおいて、人には他人には「見せたくない部分」が残るだろうと思われます。
繰り返しておくと、その「秘匿」を無かったことにする(否認する)ことを勧めているのではありません。
ですが、誰彼構わず、その「秘匿」というものは見せられるものではないだろう、ということです。
今回の企画では、特に大橋さんや西田さんがそうですが、かなりプライベートなことに踏み込んで、考察を加えられており、聴かれた方はそれなりに驚かれたのではないか、と思います。
看護や教育というものは、ある人間関係の場を問題にする限り、そしてその関係の磁場に当の観察者も巻き込まれている限りにおいて、〈最終稿〉が常にそうであるべきかは別に、少なくとも〈はじまり〉は、このような記述にならざるを得ないはずです。
今回、動画視聴を申し込み制にした理由の1つは前回までの記事で述べさせて頂いた理由もありますが、もう1つは大橋さんや西田さんのおはなしというのは、誰彼構わず、公開して良いものではないということもその理由です(どの人のおはなしもそうですが、公開範囲については、登壇者と主催関係者でかなり相談を致しました)。
というわけで、「人間であること」と題する〈序奏〉はおしまいとなります。
連載本編はこれで区切りとしますが、あと1~2回、”余話”を書いて、この連載を閉じようか、と思います(「公開収録」直前と直後にできれば、書きたいことです)。
それでは、23日、お耳に掛かれることを楽しみに(あるいは録画配信の日まで恙なくお過ごしくださいませ)。
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