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総合について:『総合ー人間、学を問う』まであと5日

こんばんは。MLA+研究所代表の鬼頭です。

今日はとても、うれしいことがありました。
noteを開設した初日に書いた記事で、とある小説をご紹介したのですが、著者の方がレスポンスをくださったうえ、Xでも拙記事をご紹介くださったのです(noteのフォロバも頂きました)。
この場をお借りして、記事への過分な評価に厚く御礼申し上げますとともに、また個別にお返事を差し上げたいと思っております(本企画の準備のため、すぐにお返事が返せず、大変心苦しく思いますが、今しばらくお待ちくだされば幸いです)。

さてさて、この連載(?)は、下記企画の広報を兼ねて行っているものなのですが、私はあんまり自己アピールが得意でも、好きでもなく、それなら「総合ー人間、学」にかすりそうなエッセイを書いたほうが、まだお目汚しにならずに済むと考えまして、1日2000~3000字で程度ちょっとした書き物をさせて頂いております。

実のところ、広報上の効果は全く上がっておりません(笑)が、この企画はオンラインで、とにかく沢山の人を集めたいというものではなしに、ふと興味を惹かれたという方に、ふらっと立ち寄って頂ける場を目指しております。
募集は上記HPでも、最近はじめた下記のpeatixからでも可能ですが、とりあえず、今は、目下このエッセイを書くことを楽しみたいと思います。

昨日、私は
>総合するということは、この世の「すべて」を知り尽くすことなのだろうか?という話をする、かもしれません(し、結局しないかもしれません)。
と書いたところで、筆を置きましたが、今日は予告通り、「総合」について取り上げたいと思います。
と、その前に

「総合ー人間、学を問う」の標題に出てくる「総合人間学」を研究する学会というのが実はありまして(企画の共催先になって頂いているのですが)、

古いバージョンの設立趣旨文から、「総合」のイメージについて、少し抜き書きしてみます。
>方法上の観点からも、全体論的把握には、検証不能の領域に踏み込んで科学的認識の範囲を逸脱するという難点もあります。しかし各学問分野が還元論的な個別の研究にとどまって、人間と世界の全体像を失う今日の問題状況の克服をめざさない限り、人間学は決定的に破産し、人間の自己認識も歴史の方向づけも断念されなければならなくなりましょう。つまるところ、各分野での個別の研究を積み重ね、その中から人間認識に不可欠な知見をもらさず拾い出し、それらを体系的に整序する作業をくりかえすことで、全体像に接近するしかないでありましょう。

??
こういう文章は、法律文書と同じで、読み慣れていないと、ちょっとしんどいかもしれません。
この設立趣意文を作られた方々にとっては、この格調高い表現でも理解できていたのだろうと思うのですが、この表現で躓いてしまうという方もすでにいらっしゃるのではないかと思います。

要するに、「総合人間学」における「総合」について何が言いたいのかと言うと、あくまで私ならこう書くというだけなのですが、

科学って、あることが成り立つことを「論証」できないといけないわけで、その「論証」には、ある決まったやり方を「想定」します。
「想定」と書きましたが、この分野ではこれは「前提」にしようね、とそこを問わないようにするわけです。
例えば、社会学で、社会って成り立たないよねってことは言いっこなしよ、っていうところから、それぞれの社会学者が研究を始めるとか、そういうことです。
このやり方の利点は、どんどん作業が「細かく」なって、その狭い範囲のなかでは、ある程度「確実」な「論証」ができるということです。
社会学で言うなら、理論社会学とか、都市社会学とか、農村社会学とか、教育社会学とか、労働社会学とか・・・細かい分野があります。

じゃあ、それならそれでいいじゃない、とも思いますよね?
現に、さまざまな学会というのは、ある学問分野の中心となっている大きな学会と、それが細かくなった学会とで成り立っています。
これも例を出すと、日本哲学会という学会はあるのですが、カント協会などの研究する哲学者ごとに集まった学会であったり、中世哲学会といった時代別に集まった学会であったり、日仏哲学会といった地域別に集まった学会であったり、中部哲学会といった研究者の居住地や職場で集まった学会などがあって、とりあえずその中だけで生きていても、研究者として生活していく分には困らないでしょう。

「還元論的な個別の研究」というのは、例えばそれぞれの研究者が、デカルトを専門としていれば、ハーバマスを知らなくてもやっていけるだろうし、親鸞を知らなくてもやっていけて、デカルトの論理さえ追っていればそれで済むということです。
たまたま哲学とか、思想を例に出しましたが、分野を問わず、隣の研究室や分野が何やっているのかを「厳密」には知らなくても、ある程度研究者として生活できてしまう、と言いかえることもできます。

でも、「総合人間学」というのは、無謀にも「総合」を目指そうとするわけです(目指すことと、現にできていることとは違いますが)。
「人間」をテーマにした学問って、挙げれば沢山あると思いますし、そもそも最初は必要だと思った人がいて、その学問が成り立っていったとするなら、どの学問も、多かれ少なかれ「人間」を扱っていると言えます。

ただし、もし現代における研究というのが、このように「細かい」部分では精確であるのに、「こま切れ」な「知」にしかなっていないとしたら、「こま切れ」でしかないのですから、人間の「全体」を語り尽くせるものになっているはずがありません。
このようなわけで、この設立趣意文を書いた人たちは、自分が専門とするものを持ち寄って、「人間」を語るうえで必要な部分だけ集めて整理することを、繰り返し繰り返しやっていったら、いつかきっと「総合」≒「全体像」が分かるだろう、と言っているわけです。
ただし、その作業は、「細かい」部分でしか成り立たないものを集めて、もっと「広い」部分でも使えないかなあ、という作業になるはずですから、飛躍があるわけで、そうすると、「検証」できないよね、と一番最初に言っているわけです。

さて、字数を考えると、もう結論に入らなくてはなりません。
そのような「総合」って、「総合」なんでしょうか?
私は「こま切れ」は、どれだけたくさん集めても「こま切れ」でしかないのではないか、と思っています。
あまり関係のない話を出すように見えるかもしれませんが、この問題は、AIのディープラーニングを重ねることによって、AIが、国語科の読解問題の点数を上げることができるのか、ということにどこか通じているように思います。

>総合するということは、この世の「すべて」を知り尽くすことなのだろうか?
という問いかけを前回しまして、「総合人間学」における「総合」というのは、「こま切れ」を集めて、整理して全体にすることが、少なくとも設立趣旨文を書いた人たちの考えだったという話をここまでしてきました。

確かに、「総合」というのは、異質なものが出会って、融合したり、ぶつかりあったりするなかで、今までとは違うなにかが出てくるという意味では、「こま切れ」について、全然知らないよりは、知っていた方がよいのでしょう。
しかし、そもそも「こま切れ」で何がどこまで分かるのかを問うということは、その「こま切れ」によって、「何が問えないのか」を自覚していく過程なのではないでしょうか。
もし、その「こま切れ」に何でも包摂できると考えているかぎり、「厳密」な意味での、新しい何かは決して生じ得ません。
だって、その「こま切れ」を成り立たせている「前提」を疑わないままでいられるかぎり、今までとは違うなにかが出てくることは有り得ないからです。

もし奇特にもこの連載を最初から読んでくださった方は、この話どこかで聞き覚えがないでしょうか。
>「何かを知れば知るほど、人間の身では永遠に知り得ないことがあると気づく。言葉を重ねれば重ねるほど、言葉にできない思いがこぼれ落ちてゆく。」
そう、『昼も夜も彷徨え』の、あの言葉です。
そして、昨日は要約を使うのは便利だが、要約に頼りすぎてはいけないよ、という話をしました。
その理由を昨日までは、要約「以外の」読みと書いていたわけですが、要するに今日出てきた言葉で言うと、「今までとは違うなにか」です。

さて、このように書くと、今度は、「新しいもの」だけ追いかけていけばいいんじゃなかろうか、と思えてきませんか?
ここでない、どこかへ行くためには、一旦更地にしてしまって、新しく何かを作った方が早いのではないか、というわけです。
でも、このおはなしは、また明日(に続く?)。
ちょっと目標字数をオーバーしてしまいました…が、「本題」からの字数ということでご容赦くだされば幸いです。

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