文学と絵画が接続された時のこと
おはようございます。
東北地方の山間部では長雨が続き、特に早朝は朝もやが立って、町は幽玄な雰囲気に包まれています。だんだん肌寒くもなってきました。
去年までは、この気持ちのいい時間に手曳きで珈琲を入れて、読みかけの本をじっくり読む時間でしたが、今年は悲しいかな、最近全く本が読めていません。資格試験が迫っているためです。
早朝の読書は、睡眠時に見る夢の続きのような、ある種独特の精神状態で臨むことができると思います。まだ完全に覚醒しきっていない、自分自身が夢と現実の狭間にいる状態で本の中の世界に没入できるのです。
やがてカフェインの力でだんだん覚醒が進み、朝のルーティーンに入れるようになります。朝日が差してきて暗闇と朝もやが後退すると、いよいよ平日の朝に突入するわけです。
去年のこの時期には、以下のような本を読んでいました。
ガブリエル・ガルシア=マルケス『中短篇傑作選』
イサーク・バーベリ『騎兵隊』
チャイナ・ミエヴィル『言語都市』
トルーマン・カポーティ『初期短篇集』
エルヴェル・テリエ『異常【アノマリー】』
SFの2作品(『言語都市』と『異常』)を除いた他の作品は、ストーリーの詳細はもうあまり思い出せないくらいなのですが、ストーリーではない別の部分で印象深く記憶に刻まれているのが、イサーク・バーベリの『騎兵隊』でした。
以前、ロシア文学翻訳者の奈倉有里先生の講演会に参加したとき、先生は「ストーリー展開の面白さだけが、作品の面白さではない」ということを仰っていました。
上に挙げた作品だと、『異常』はまさにストーリー展開の面白さによって読者を強烈に引き込み、畳みかけるようなどんでん返しの連続で最後まで一気に読破するタイプの作品です。すごく面白かったし、物語のかなり詳しい部分まで記憶に残っています。
『言語都市』はもう少しクレバーで落ち着いた感じですが、やはり未知なるものと接する過程での驚きや裏切り、共感や感動が読書のスピードを上げていきます。
カポーティの初期作品は駆け出し作家の習作みたいなものが多く、後の大作の根幹となるイメージがすでに表れていたりする点で面白く読めましたが、ひとつひとつの物語はほとんど記憶に残っていません。
ガルシア=マルケスの作品は、読者をほとんど想定していないような、自由気ままに書かれた作品が多かったように思います。でもそれが読者にとっては想定外の展開であり、またブラックユーモアの助けもあって、なかなかリーダブルな作品だったように思います。
ただし、これらは「小説が面白い!」というときの、ほんの一形態でしかないと思うのです。芸術としての文学の面白さは、私達が想像するよりもっと幅広いのではないかと予感させたのが、『騎兵隊』でした。
イサーク・バーベリの『騎兵隊』は、著者自身が第一次世界大戦に従軍した際の経験をもとに書かれたもので、何か明確なストーリー展開があるわけではなく、断片的に戦争の悲惨さやユダヤ人としての自意識が訥々と描かれている作品でした。時系列に沿って書かれているわけでもなく、「悲惨な戦争を描こう」としているわけでもなく、ただ印象的なシーンがリアリズムの手法によって精緻に描かれていた記憶があります。
この作品のどこに驚いたかというと、独特の風景描写です。上手く言えないのですが、細部まで緻密に言語化されていながら、どこか写実主義とは異なる感じがしました。写真や映画のように映像が浮かび上がってくるのではなく、印象派の絵画のようなイメージが勝手に想起されるのです。
今、ポッドキャスト番組「コテンラジオ」では印象派画家のゴッホの生涯が取り上げられていて、彼の悲しみの極北のようなものに触れることができます。この中でゴッホの「星月夜」という作品が取り上げられていましたが、これがまさに『騎兵隊』のイメージとぴったり一致するのです。
長く過酷な行軍生活を耐え忍びながら、詩人の眼で周囲の様子を必死に捉えようとしたバーベリ。重い精神疾患に苦しみながら、正気を保つために描き続けたゴッホ。作られた時代も場所も違えど、もしかしたら作品に賭ける魂の総量が同じくらいだったから、こうまで似ているのかな、と思いました。
これは私にとって「小説」と「絵画」が結びついた、人生で初めての経験であり、この作品以降はまだ経験していません。
『騎兵隊』読後に、脳裏に浮かんだイメージに何か既視感があると思って、ネットの海をさまよっているうちにたどり着いたゴッホの「星月夜」。
今後、もう一度『騎兵隊』と「星月夜」のような衝撃的な出会いを経験することができるでしょうか?
絵画の世界に入り込んでいく、あの何とも言えない恍惚とした気持ちを思い出して、この長雨の時期はうずうずしてしまいます。
読書の秋、皆さんはどんな思い出をお持ちでしょうか?