【書籍紹介/海外文学】宦官の村から生まれた、独裁者の顔をした男
しばらく映画レビューが続きましたが、書籍紹介に戻したいと思います。
すっかり季節も春めいて、桜も終わり、若葉が芽吹いて本当に気持ちいい気候になってきました。
そんな気持ちいい季節に読みたい、さわやかな作品を紹介したい……そう思っていたのですが、
思いがけず衝撃的な作品と出会ってしまったので、もうさわやかとか言ってられなくなりました。
今回紹介するのはこれです。
イーユン・リー
『千年の祈り』
イーユン・リーは中国系アメリカ人の女性作家で、作品は全て英語で書いているようです。
この短編集は、収録作品の多くが中国社会の家父長制や女性蔑視を描いていて、中国社会の外から中を覗き込むような視点を感じさせます。
彼女自身が中国社会ではアウトサイダーだったからでしょうか。
あとがきには、「中国語で書くと自己検閲してしまう」という自覚が著者にはあって、あえて英語で書いているということです。
どの作品も完成度は高いものの、私みたいな独身女性が読むと結構メンタルに来るものもあるので要注意かもしれません。
しっかり物語を相対化できる人向けです。
今回は、この短編集の中の『不滅』を紹介したいと思います。
あらすじは以下の通りです。ネタバレあります。
他の短編と比べても中国色の濃いこの作品、なんとイーユン・リーの処女作で、大学生の時に書いたというのだから驚きです。
私自身も聞きなれない単語がいくつか出てきたので、まずはそれらを整理してみたいと思います。
前近代の象徴としての宦官
宦官って男性器を切断して皇帝に仕える奴隷だってことは知ってましたが、中国最期の王朝、清が滅んだあとの彼らがどうなったかって、そういえばあまり知りませんでした。
もともとは皇室の女性達と不倫してややこしい事にならないよう子供の頃に去勢された男性で、
性的な能力を奪われたからこそ皇帝や皇妃からの信頼を得て、絶大な権力を握り、士大夫(科挙を突破した官僚)や外戚(皇后の親族)と三つ巴の政争を繰り広げたりしました。
残酷無比なイメージがあるのもそのせいです。
宦官の政治権力は皇帝からの信頼があってこそ。彼らの立場はすべて皇帝の権威に依存していたのです。
ただし、明から清に王朝が変わったとき(1636年)には宦官が政界からほとんど追放されます。
というのも、ひとつは清は女真族という遊牧民系の少数民族による王朝であり、漢民族の明とは違って宦官の風習が元々なかったことがあります。
また人口の大多数が漢民族の国を統治しなければならず、清の皇帝は常に良い政治をしなければ反乱が起きるかもしれないというプレッシャーをかけられていました。だからこそ質素倹約に務め、華美な暮らしをしないようにして、宦官の数も大幅に減らした……ということが作用したようです。
とはいえ、清朝でも皇帝や皇后のお世話係として引き続き宦官は召し抱えられいて、辛亥革命の後の馮玉祥のクーデターによって皇帝が紫禁城から追い出されるまで、宦官はずっと最高権力者のそばにいたのでした。
本著では、宦官が紫禁城を追い出されたあと、周辺の寺院に匿われている様子も描かれます。Wikipediaによると、追い出された宦官はなんと2000人にものぼるそうです……。
彼らの一部は外国人ジャーナリスト相手に身体を見せて金を受け取ったりしていたようで、今でもその写真をネットで普通に見られます。
儒教の概念が根強く、男は結婚し男児をもうけることが最高の親孝行とされる社会で、性機能を失った男性が一体どんな一生を送らねばならなかったのか、想像するに余りあります。
清末の宦官といえば浅田次郎の『蒼穹の昴』を思い出します。あの主人公春児も立身出世のために自分で性器を切り落とした宦官の一人。
生まれが貧しく科挙を目指すすべもない人々は、千載一遇のチャンスに賭けて自ら去勢し、宮廷に出向いたのです。それもほんの子供の時に。凄まじすぎる……。
『蒼穹の昴』では、清が弱体化の一途をたどる中、変法自強運動を推し進めようとする知識人に対し、西太后は大弾圧を繰り広げます。宦官の立場も常に西太后と連動し、弾圧に加担します。つまり、宦官は改革を阻止しようとする守旧派であり、近代化を阻む"未開の象徴"のようなものとして描かれます。
多くのコンテンツでも同様でしょう。
でも実際、宦官制度によって多くの貧民が食い扶持をつなぎ、自分の兄弟を結婚させ、子孫を増やしたのだと思うと、そう単純に宦官制度を批判することはできない気がします。
本著に出てくる鎮は、もともと名もなき寒村にすぎませんが、宦官制度によって名をはせ存続してきた共同体です。宦官がいくら前近代的であっても、現実にはこの鎮のように中国の下層社会を支えてきた側面もあるのです。
歴史を俯瞰して「よくない」と価値判断することは簡単ですが、実際にその時代を生きた人々の肌感覚を想像し、共感しようとする姿勢も重要だと思うのです。本著はそんな姿勢を思い出させてくれる作品です。
プロパガンダ映画の主役、「特型演員」
中国では、共産主義と中国共産党の正当化を図るために多くのプロパガンダ映画が作られました。そんなプロパガンダ映画から生まれたのが「特型演員」というもので、毛沢東だったら毛沢東役だけ、周恩来だったら周恩来役だけを演じる俳優のことです。
長期にわたって同じ役を演じることを求められる特型演員は、容姿がそっくりなだけではなく、身長・体重に至るまで厳しく管理され、またその役柄を深く理解し本質に没入することが求められます。当然、身辺が潔癖であることも重要視されます。
つまり、特型演員は彼が演じる権力者と半ば同一視される存在だったのです。中国版Wikipediaによれば、特型演員に立候補するには中国共産党中央委員会の承認を受ける必要があったそうです。
本著でもそんなシーンが描かれます。
面白いのは、宦官も特型演員も、皇帝や中国共産党書記長という最高権力者に依存する形でしか、自らの権威を確立できない存在だということです。
イーユン・リーはそこに着目して、宦官の村に独裁者の顔を持つ男を産み出したんでしょう。
視点人物の「わたしたち」は鎮そのもの
あらすじでは分からないように書いてしまいましたが、この作品の視点人物「わたしたち」が「鎮そのもの」である、というのは特筆すべき特徴です。鎮≒村 と書きましたが、日本の村とは少し違っていて、共同体の構成員のほとんどが同じ姓を持っており、血筋をさかのぼると同じ祖先にたどり着く血縁による共同体だそうです。
この鎮の視点が、まるで自分の息子のように、あるいは自分の手足のように男を描写していくのです。これが面白くもあり、残酷でもあります。
読んでいくと違和感を抱くと思うのですが、視点人物=鎮は男に対して親愛や愛情のこもった眼差しでその栄達を喜んだり、行く末を心配したりします。
しかし一方で男の内面には踏み込まず、男の苦しみや悲しみに寄り添おうとしているわけでもないのです。
男が特型演員として出世することを喜ぶのは、鎮の誇りが保たれるから。
改革開放後の男の凋落を嘆くのは、絶頂期に男が結婚を断り続け、今となっては婚期も逃し、男児をもうけて鎮の構成員を再生産することができないから。
最後に男が自分の男根を切り取った行為について、鎮が最も心配したのは、男が切り落とした男根を紛失してしまって、もし男が死んでも男根を墓の中に入れるという鎮の伝統が守られないから。
……そんな風に思える書き方になっています。
視点を変えて、男の立場に立って鎮のまなざしを見返してみると印象が変わります。
愛情深い「わたしたち」の視点こそが、立身出世が叶わず、性的なスキャンダルを起こしてしまった男にどんどん追い打ちをかけていきます。
ポン引きに写真をバラまかれるという屈辱は、確実に鎮の名誉もを傷つけました。
男は鎮の怒り・失望を肌身に感じて、性器を切り落としたのです。
この後、鎮では男の物語をどのように伝えていくのでしょうか?
普通なら宦官も特型演員も時の権力者に弄ばれた悲劇の人物として描写しそうなものです。
しかし共同体である鎮は、そうしないかもしれません。
それは物語冒頭の宦官について書かれた部分に露骨に現れていますが、鎮は人々をひとつの塊として描写する節があります。
宦官一人一人の悲劇的な部分はオミットされ、輝かしい栄光の部分が寄せ集められ統合されたものを、鎮の歴史として残そうとする意思を感じられるのです。
例えば、宦官になった村人が政争に巻き込まれたり虐殺されたりしてそのまま帰らぬ人になる、なんて事はザラにあった筈ですが、鎮はそれに触れようとしません。鎮にとって不利な、個別具体的な事例は必要ないのです。
一方で、特にたくさん稼ぎ、宦官としての最高位まで登り詰め、華やかな葬儀を上げた僅かな宦官だけが、個別的具体的な人物として語り継がれます。鎮にとってその価値があるからです。
そのどちらでもない宦官は、その人生を抽象化され人格を剥奪され、ひとまとまりに統合されて、歴史に残されるのです。
では男の物語はどうなるでしょうか。
彼の物語は宦官の物語ではない。だからひとまとまりに統合されることは出来ないです。
しかし、彼の人生は結局「失敗」だったわけで、個別具体的な人物として語り継いでいくことも避けたい。鎮の恥晒しだからです。
じゃあ隠すのでしょうか?
そこまで考えた時に、ようやく男が自分を去勢した本当の意味がわかった気がしました。
去勢は、鎮にとってのアイデンティティの源であり、男は去勢することでそのアイデンティティに同化しようとしたのです。自分の人生を消されないために。
もし去勢しなければ、男の人生はきっと鎮で語り継ぐ価値がないと判断されたでしょうが、去勢することで鎮は男に注目せざるを得なくなったのです。
もっと言うと、この作品自体が、男が去勢したことを受けて鎮が男の人生を語り直したものだと言えます。
なぜ男は鎮の歴史から消されて欲しくなかったのか。
それはやっぱり抗議したかったからではないかと思うのです。
権力者に依存することでしか自己を実現できない在り方や、そういう構造になってしまっている社会や、それに疑問を呈さない鎮に対して、その欺瞞や不公平や不均等に思い至る取っ掛かりをつくりだすために、自分の人生を消されたくなかったのではないか。
つまりこれは形を変えた抗議行動なのではないかと思い至ったのです。
……と、ちょっと混み合った話になってしまいましたが、そんなに長い作品でもないしめちゃめちゃ面白いので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思いました。
皆さんはどんな風にこの作品を解釈するのでしょうか?