【映画レビュー】ホロドモールを暴露した記者の正義
こんにちは。
最近資格の勉強が忙しくて記事を書けていませんでしたが、煮詰まってきたので気分転換に簡単な映画レビューでもしてみようかなと思います。
かつては私もアクションやSF映画を好んで観ていたのですが、読書に選ぶ本が海外文学に接近していくにつれて、観る映画のジャンルも変化しているなと感じます。
文学も映画も繋がっている。文学作品のココが気に入らない、となれば、自動的に映画の好みにも反映される気がします。
具体的には、最近典型的なハードSFに胃もたれするようになって、積ん読本がずいぶん溜まってきたのですが、映画でもSFに食指が動かなくなってきました。
で、代わりにどんな作品を観たくなるのかというと、今回紹介するような暗くて残酷な現実を描いた、いわゆる"社会派"みたいなやつです。
今回観たのはこの作品です。
『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』(2019)
実話に基づく作品だそうです。
時は世界恐慌真っ只中の1930年代。
若くて正義感溢れる記者ジョーンズが、英国首相の外交顧問を解雇された後、再起をはかってソ連取材を敢行する物語。
そこで、本来は行くことを禁じられていたウクライナに潜入し、ホロドモール(集団飢餓)の実態を目の当たりにするのです。
社会主義国下における資本主義国の記者たち
外国人は誰であっても、短期滞在中はソ連政府に定められた1軒の高級ホテルにしか宿泊できず、特に記者には監視役の男がつき、電話回線は傍聴されている。
外国人記者の多くはここで寝泊まりしていると見られ、記者クラブのようなものも存在するように見受けられます。
ジョーンズはここでニューヨークタイムズ モスクワ支局のデュランティという男と知己となるのですが、この男がソ連政府と癒着関係にあることを悟ります。
この映画の盛り上がりは2箇所あって、一つはモスクワの高級阿片窟での酒池肉林の描写。
そしてもう一つはウクライナのホロモドールの描写なのですが、
デュランティは自らピューリッツァー賞を受賞したほどの記者でありながら、阿片窟で素っ裸になって酒と美女に溺れる生活をしていたのでした。
ここで個人的に気になるのは、彼が物凄く資本主義的な消費生活をしてるって事です。
彼が身につける服だって、どこからどう見てもブルジョワジーの装いだし、住んでる邸宅の内装も立派です。
もう一つ、ここソ連で英国資本の軍需産業を展開している技術者が登場し、ジョーンズがウクライナへ行く手助けをするのですが、彼も非常に裕福に暮らしている様子で、しきりにヴォトゥカを飲みながら「ソ連が必要なもの全てを用意してくれる」と豪語します。
ソ連は、その理念としてはブルジョワ階層を解体し、プロレタリアートに富を再分配することを推し進めてきたわけで、例えばリュドミラ・ウリツカヤ『緑の天幕』では、家財道具やピアノが略奪され破壊されたり、少しでもブルジョワと思われると社会的なパージを受けたりしたわけです。
にも関わらず、外国の、それも仮想敵国である資本主義国の記者にブルジョワ的生活を保証するソ連政府の強かさに驚かされます。
ジョーンズの目の前で、娼婦が自分の腕に阿片を注射するシーンは強烈でした。
そこには革命の理念も何もなく、倫理や思想も欠如して、ただ餌と娯楽だけを与えられ、飼い殺されている感じがしました。
とはいえ、この映画をそのまま史実として捉えてはいけないし、個人的な感想としてはちょっと盛り過ぎかな?という気もしましたが……。
ホロドモールの描写について
前半から一転して、後半ではウクライナの極度に貧しい描写が展開します。
季節は厳冬期の3月。乗っていた外国人用の電車を飛び降りて、貨物列車に乗り込んだジョーンズは、そこに飢えた農民たちが鮨詰めになっているのを見ます。
駅で降りると、ホームには倒れている人が。でも誰も見向きもしない。
汚い労働者と共に大量の小麦を積み込む作業をさせられ、小麦は全てモスクワに行くのだと教えられたジョーンズですが、役人にスパイだと嗅ぎつけられます。
雪の中を逃げて辿り着いた農村では、心中を遂げた老夫婦を目撃し、一輪車に山積みされた死体を運ぶ農民と出会い、母を失った幼子もろとも死体の運搬車に乗せられていくのを見て、茫然自失となります。
薪にする枝を運んでいた兄弟と出会い、彼らの家に行ってみると、小さな肉片の入った薄いスープをご馳走になるのですが、その肉はなんと……
そして小麦の配給の人だかりに紛れ込んだところを、当局に見つかり逮捕されたのです。
こうして書いていくと気持ちがズーンと重くなっていきますが、実際は観てもそれほど感情移入させられないと思います。
それは、事態が如何に酷いかを頑張って描こうとするあまり、死んでいく農民たちを客観的にしか表現しきれていないからだと思います。
Wikipediaを見ると、この映画には批判も多いようですが、その一端はここにあるのではないかと思います。
頻繁に死体は映るし、肉片のスープはショッキングなのですが、ジョーンズは彼らと交流をしたり、なんならロクに言葉を交わしたりもしません。
ソーセージを餌に、子供たちに取材するシーンもあるのですが、そこでは子供たちは詩を朗読し、ウクライナ民謡を歌うだけです。
歌詞は生活の悲惨さを謳っていますが、それは子供たち自身の言葉ではないのです。
もう一つ、いまいち状況の悲惨さを了解できないのは、季節が冬だからです。
いくら五カ年計画だの収穫倍増計画だの言っても、ロシアの冬に小麦は実りませんよ。
ここは私が雪国に住んでいるから余計感じるのかもしれませんが、真冬の景色ってこんなものだし、何もない雪原が「飢餓の証」「収穫倍増は嘘」という事にはならないでしょ、と思うわけです。
なんで収穫期の夏とかに取材行かなかったのかな〜。たわわに実っている筈の小麦畑が荒廃している方が、絶望感はひとしおだと思うのですが。
私はここに、ロシアという国への西欧諸国のステレオタイプーー極寒で寂しくて貧しい大国ーーを見てしまいました。
あと、冬のロシアを舐めるな!零下20度であんなに行動して、夜間は野宿だなんて、絶対身体が持ちませんよ!
空腹で木の皮食べる前に、寒さと雪盲で先に行動不能になりますよ!
"若気の至り"では済まないジョーンズの浅はかさ
批判も多い映画らしいと書きましたが、その別の理由は、ジョーンズの遺族が「実際ジョーンズは死体の運搬を見ていないし秘密警察にも追いかけられていない」と訴えたにも関わらず、制作側が適切に対処しなかったということにもありそうです。
私がもし遺族だったら他にも言いたいことがたくさんあります。
正義感溢れる有能な記者であり、首相の外交顧問であり、史実でも独仏露語を自在に操る秀才だったそうですが、映画の中の彼の行動は問題がありすぎます。
その最大のものは、やっぱり電車を飛び降りてウクライナに潜入したことですが、それをやってしまったら彼を案内してくれた技師たちが危険に晒される、下手したら殺されるかもしれないことが分からなかったんだろうか?
分かっててやったとしたら、非人道的にも程があるんじゃないか?
あるいは、技師6人が人質に取られているにも関わらず、ソ連の内実を公衆の面前で暴露してしまうところも。
6人が殺されるという覚悟のもとでやったのか?
覚悟していたにしても、彼らのことを1ミリも思い出さないのは如何なんだろう?
そう考えると、ソ連政府から必要なものを全て与えられ何不自由ない生活をしていると、ヴォトゥカに酔いながら技師が話すあのシーンは、我々視聴者に「技師たちは見捨てられて当然」という印象を持たせ、ジョーンズの行動を正当化するためのものだったんじゃないかと思いました。
遺族からしたら良い気持ちではないなと思います……。
ジョージ・オーウェル『動物農場』の引用
映画の随所にオーウェル『動物農場』が引用されるのですが、映画にも実際オーウェル自身が登場します。
映画は字幕で見たのですが、駐ソ連記者が自分を尾行する男のことを「ビッグブラザー」と呼んでいたり(字幕では「監視者」になってしまっていましたが)、終盤ではジョーンズが「飢餓は無かった」と繰り返し声に出すことを求められたり、かなりオーウェルを意識した作品になっています。
『動物農場』は農場主の手から農場を奪い返した動物たちが、合議制のもとでオートノミーを実践していく寓話ですが、やがて知能の高い豚が富を独占するようになります。
この「豚」の役割を、映画ではソ連政府と癒着したニューヨークタイムズをはじめとする各記者に当てはめているわけです。
そして主人公は「豚」を糾弾するジョーンズは正義のヒーローになるのですが、実際そんな単純な見方ができるでしょうか?
ソ連に駐在する記者たちは常に危険に晒されていて、政府を批判しないことを条件に、そのほか自国にとって必要な情報を報道しているとも言えます。
国家権力にある程度加担しなくては取材できない、という構図は、何もソ連だけではなく、アメリカでもイギリスでもそうだった筈だし、程度の差こそあれ今でもそういう部分があるんじゃないでしょうか。
豪華な暮らしを守るために臭いものに蓋をしているというとその通りだし、それ自体批判されるのは当然ですが、彼らにも人生があり、家族があり、そして「追い出されずに駐在し続ける責任」があると思うのです。
ペルソナ・ノングラータになったら死ぬか国外追放される。そうされないための打算的選択として批判の矛先を下げる人たちのことを簡単に「豚」と言えるか?というわけです。
なんだか、社会主義に魂を売った連中は、社会主義国家の権力者より悪い、というようなニュアンスさえ感じてしまいました。
なるだけ現実を単純な二項対立に収斂させたくないものです。
ジョーンズ記者と日本の関係
ホロモドールの暴露のあと、ジョーンズがどんな人生を歩んだのか、映画のエンドクレジットで紹介されていました。
ソ連の入国を永久的に禁じられたジョーンズは、なんと日本統治下の満州国(いまの内モンゴル)を取材したそうです。
そこで中国人の強盗に拉致され、30歳の誕生日を迎える前日に殺されたということでした。
エンドクレジットでは、この中国人強盗の背後にはソ連の秘密警察がいたとも言われている、と言ってます。
一方で、日本軍の関与があったという説もあるそうです。
ジョーンズはウクライナでは名もなき英雄という扱いだそうですから、そんな彼を日本が殺してしまったかもしれないという事ですね。
こういう事件が日帝時代にはたくさんあった筈ですが、私達はそれらをどれだけ知っているんだろう?
「侵略戦争を反省すべき」と言う時、本当に求められているのは、こうした埋もれた歴史を一つ一つ自分達の手で掘り返していく作業なのではないかと思いました。
手緩いと思ってしまう時代になった
嫌な時代になったものです。
ウクライナでは今でも戦争しているし、パレスチナでも市民が犠牲を出し続けています。
そんな時代を生きる私から見ると、この映画というか、映画が描く1930年代という時代が、微妙に生ぬるく感じてしまうのです。
今だったらジョーンズはソ連を出国できないだろうな、と思います。
手っ取り早く電車に轢かれて事故死にするか、満洲国でしたみたいに異民族の強盗に殺させるかな。
あるいは帰国できたとしても、英国内のソ連人スパイを使って(この当時諜報活動が最高潮でした)直接彼の家族を人質にとったり。
そもそも、彼がウクライナに移動すると分かった時点で何人もの監視員を付けて、絶対おかしな真似を出来なくするだろうな、とか。
世界がある程度平和なら、こうした事の解像度が低いままで映画を楽しめたかもしれないけど、もうそれも出来なくなってしまいました。
でもこれ自体は悪いことではなくて、こうしてちょっと斜に構えた気持ちで映画を見ることで、製作者の人となりが透けて見えてくるのも、それはそれでアリな見方ではないかと思いました。