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音楽にすべてをかけた私が音楽をおやすみしたい理由は、音楽を「表現」の手段として扱えないからだった。

ここ2年ほど、音楽活動をおやすみしています。

といっても、たまにレッスンの仕事はしているし、表立って「おやすみします!」と宣言をしたわけではありません。
プロフィールにもまだ「音楽家」を残しているし、厳密にいうとおやすみ、ではないのかもしれないけれど。

積極的に演奏活動をして、音楽の仕事を広げていこうと思っていた頃に比べると、気持ちは十分、おやすみモードに入っています。


私は長年、クラシック音楽を専門にやってきました。

トロンボーンという少し変わった楽器を手にして、音楽大学に通って、大学生のうちに借金までしてレッスンを受けて。

「音楽の道で生きていく」と心に決めた中学3年生の冬ごろから、大学を出てしばらく経つまで、音楽は私にとってのすべてでした。
カッコつけたいとかそんなんじゃなく、本気でそう思っていました。

なぜあんなにものめり込んで、自分のなにもかもを費やした音楽への熱が遠のいてしまったのか。

音楽はお金になりにくいから。私にはそれほど音楽の才能がなかったから。
並べる理由はたくさんあるのだけれど、本当はそこじゃない気がする。

ここ最近、開けたくなかった重たい箱の蓋を開けるみたいに、私と音楽の関係性を少しずつ、少しずつ考えてみていました。

今日は、そんな気持ちをひっそりnoteに置いておこうと思います。


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実は先日、人生ではじめてコーチングを受けてみたのですが、そのときにコーチにいわれたんです。
「本当は音楽やりたいんじゃない?」「やらないことに、無理に納得しようとしているんじゃない?」って。

「そうなのかな」と思ってじっくり考えてみたのですが、正直にいうと、やっぱり今はそれほど音楽をやりたいと思っていません。
けど、心底嫌いになったとか「二度とやりたくない」と思っているわけでもありません。


なぜ音楽への熱意が取り戻せないのか。


考えてみた結果、それは私自身が自分で思っていたより「職人」ではなかったから、だと思っています。

よく、「クリエイターと職人は違う」と耳にすることがありますが、私にとってクラシック音楽家はどちらかというと「職人」なのです。
(これには賛否両論あるでしょうが、あくまで私の気持ちです。)


クリエイターって、型とかよりも、自分をとことん表現する人。
職人は、決められた伝統的な型に則ってものをつくって、次に繋いでいく人。


私のなかでは、そんなふんわりとした線引のようなものがあります。
そして私がやってきたクラシック音楽というのは、圧倒的に後者に思えるのです。

自分が思うような演奏を突き詰めていけばいくほど「この曲はそうやって吹くものじゃない」と師匠に怒鳴り散らされた学生時代。

実際、クラシック音楽には「楽譜に書いてあるわけじゃないけど、ここはゆっくりする」「この時代のこの国の曲は、こうやって演奏する」という暗黙の了解、業界のお約束のようなものがたくさんあります。

別にそれが間違っているとも思わないし、それもクラシック音楽という文化を残すために必要なものだと思っています。

ですが、長年その世界のなかで生きてきた私は「そういうものなんだ」と感じる一方で、いつもどこか違和感がありました。

「この曲でその吹き方はないよ」と言われても、私にはなにがどう「ない」なのか全然理解できなくて、守るべきスタイルがあるのは理論的には理解できるけど、じゃあ私はいつになったら私のやりたいように演奏できるのだろう?って。

それでもクラシック音楽の世界でどうしても生きていきたかった私は、その「お作法」を覚えようと必死でした。
本当はあんまり理解していないクセに、分かったフリをして。

大学を出てフリーランス音楽家としてもがき始めるころには、私にとっての「表現」とは「正しいものを再現すること」に成り代わっていた気がします。


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幼いころから絵を描いたり歌を歌ったり、手芸をしたり、とにかく「つくる」ことが好きでした。

そういえば昔は漫画家になりたかったし、シンガーソングライターになりたくて、作詞作曲に奮闘した時期もありました。

漫画を描いていた小学生のころ、「ストーリーが思い浮かばない」と落ち込んであまりにグダグダいって、母親から「漫画家でもないんだから、すぐ思い浮かばなくたって困らないでしょ、しつこいよ」と怒られたこともあります。

でも、今思えばそのくらい私にとって「つくる」こと、私のなかにある「なにか」をアウトプットすることは、生きがいとも呼べるくらい重要だったのです。
たかが小学生の趣味くせに、本気で思い悩んでしまうくらいに。


アウトプットにも、いろいろな種類があると思います。

どうやら私にとっての「アウトプット」は、誰かがつくったものを真似るとか、決まった型になにかをはめていくことではないのだと、今になってようやく気が付きました。

もちろん、「いいな」と思った人のやり方を無意識に、自然に真似ることはあります。

でも「この世界ではこうだから」「この場合はこうだから」と決まった当てはめていくことが、どうやらしっくりこないみたいなのです。


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「クラシック音楽」という世界を嫌いになってしまったのか、といわれると、やっぱりそういうわけでもありません。

たまに楽器を持ってカラオケに行って、学生時代に練習した曲を吹いてみて「楽しいな」と感じることも、もちろんあるんです。

でも、それではこの業界で「職人」として生きていくことはできないことも、私は十分に知ってしまっています。

じゃあクラシック音楽にこだわらず、やりたい音楽やればいいじゃん、ジャンルなんてなんでもいいじゃん、そう思ったこともありました。



ー でも、なぜかそれができなかった。


なにかに感動したとき、思うことがあるとき、今の私は楽器のケースよりもnoteを開きたくなってしまう。カメラを構えたくなってしまう。

じっくり振り返ってみると、「あ、これを伝えたい」「この気持ちを記録したい」と思ったときに「楽器を手に取ろう」と思ったことは、この数年間のあいだ一度もなかったのです。

トロンボーンという楽器を、音楽というツールを、「ほかの誰かを再現するもの」として扱いすぎてしまった私には、自分のなかにある熱いものや、モヤモヤと漂うものを音で届ける方法が、もう分からない。

「あの人がこうやって言ってたよ(私はそうは思わないけど)」と伝書鳩をするみたいに音楽を使ってきてしまったせいで「自分の内側を音楽で表現しよう」という思いは、今の私にはずいぶん薄れてしまっているようです。


それでも幼い日の私は、自分の想いや考えを乗せて、曲をつくっていた。
歌を歌って、ピアノを弾いていた。


きっと今は忘れてしまっただけで、音楽を「再現」ではなく「表現」の道具として使う力も、使いたいという気持ちも、私のどこかに眠っているのでしょう。

自分の部屋に何時間もこもって、「つくる」を続けていた小学生時代の記憶が、まだ昨日のことみたいに頭の中にこびりついています。

だから、いつかまた、自分の胸のうちを晒け出す手段として音楽を選びたくなる日が来るかもしれない。

そのときにはまた堂々と「音楽家」を名乗って、やりたい音楽をめいっぱい奏でていきたいと思うのです。

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