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ガルラジと思い出す

 来たる8月9日21時00分、『ガールズ ラジオ デイズ』(以降ガルラジ)の一挙放送が予定されています。それは今日! 概要は以下!

Natchさんによる非公式紹介画像。素晴らしい仕事ぶり。いつもお世話になっております。
ひっかけさんのnote。とても役に立つ。いつもお世話になっております。

 本稿の有用情報は以上です。ラジオ風ボイスドラマという大変消化しやすい(本当に?)形式のガルラジ、夏の夜長のお供にしていただければ、同好の士として欣喜雀躍いたします。過去回も全てアーカイブ公開されています。よろしくお願いします。

 以下は感想文です。ガルラジに触れ始めた2019年1月から早一年半。感想を書こうとすると、作品のどういう所が良いという紹介ではなく、僕個人の性質のどこに作品が刺さったかという自分語りになってしまうので避けてきましたが、この辺りがタイミングでしょう。生きているとたまにありますね、そういうことが。そういうことです。

 人がガルラジについて語るとき、その特異性と伝説が付いて回ります。各チーム各パーソナリティが互いに向け合う感情、凝っているのか偶然なのかよく分からない造形、これまでにない手法で形成される実在性……めちゃくちゃにされる"リスナー"、徒歩でサービスエリアを訪問するリスナー、放送時間に合わせて現地で聴取するリスナー……その前に現れる運営スタッフ、何かにつけて美声で弾き語る原作者、藤田ゆきのなる人物、ひのき玉売り切れ、ドワンゴのガルラジおじさん。異常に彩られた異常な物語。

 ご多分に漏れず僕も彼女たちの関係性にやられた一人ではあるのですが、しかし、やはり一番大きな衝撃を受けた要素は、作品としての実在性の作りようでした。なにしろ手が込んでいる。関係性の話題と同様、こちらもまたガルラジにハマる切っ掛けとして珍しい角度ではありません。その中で僕の場合は、という話を。

 批評家、小林秀雄に「無常という事」という著作があります。なんか大学受験とかで有名だったらしいですが、最近はどうなんでしょうね。小林秀雄の歴史観が綴られた本作は、筆者自身の奇妙な体験の描写から始まります。以下引用。

「或云、比叡の神社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅寺の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」
 これは、一言芳談抄のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿る様に心に滲みわたった。
(中略)
 確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上がった文章をはっきりと辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事はわからない。わからぬばかりではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落に過ぎないかも知れない。僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

 鎌倉時代を「思い出す」体験とその感覚は、もちろん小林秀雄の巨大な知性に基づくものであって、凡夫にも劣る僕などには想像も及びません。それはそれとして、僕も「思い出す」を経験したことがあります。それも本作を読むより前に。

 時は2010年4月17日夕刻。若きmktbnは電車の座席で漫画『ヨコハマ買い出し紀行』を読んでいました。混乱したメモが残っています。原文ママ。

ヨコハマ買い出し紀行 20100417
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現在六巻まで読了。読み終わってのこのなんとも言えない感覚を忘れないために記す。
本当にどう表現すればいいのか分からない。興奮しているわけでも、空虚さに襲われているわけでもない。だが、何らかの感情が僕のなかにある。表現できないのがもどかしい。書きたいのはこんな言葉ではない。これが世界観に引き込まれているということだろうか?だとしたら僕は今まで、漫画に引き込まれたことがなかったわけである。
二回目以降読んでも、面白いが、最初の感覚は取り戻せない。となるとこの感覚を味わえるのは多くても後四回だけかもしれない。読みたいような、読みたくないような(引用者注:『ヨコハマ買い出し紀行』新装版は全十巻)。最終巻を読むまでに、この感覚の正体を掴めるだろうか。

 こういうことがあるのでなんでも残しておくといいですね。良くないですね。ともかくこの日mktbnは、一瞬か一秒か一分間だったかも分かりませんが、『ヨコハマ買い出し紀行』の世界を現実の出来事として体験しました。まさしく「思い出す」ように。

 片や過去に読んでいた随筆、片や読んでいる最中の漫画。それも中世の逸話と海面上昇が進んだ世界を描くSFとでは、ずいぶん状況が違っているようですが、何か論じたいわけではないので見逃してください。俺はずーっと俺の感覚の話をしている。これはとても難しい。

 僕がこの一瞬『ヨコハマ買い出し紀行』に完全に没頭できたのは何故か。小林秀雄の場合と違って眠りかけていたということも十分に有り得ますが、それも含めて、やはり諸条件が噛み合ったのだろうと思います。てろてろと時間が進む作中世界・夕凪の時代と、夕方の電車内の空気。孤独ではないけれど一人で動く事も多い主人公・アルファさん、友達と別れ一人帰路にあるmktbn。そして『ヨコハマ買い出し紀行』が、実在する土地を舞台に世界の奥行きを想像させる作品であること。

 この体験により『ヨコハマ買い出し紀行』は僕にとって別格の作品となり、また「思い出すような虚構」がmktbnの一つのテーマ(作品の受け手としても書き手としても意識するポイント)となりました。一次創作での設定の詰め方、二次創作においてはシミュレーションの意識などがそれで、観測範囲で時折起こる集団幻覚(絶対に実在しない時代劇の「あった回」を提示し合うなど)も、僕には「思い出す」と繋がる遊びという気がしています。

 実践できているかはさておき、作品と接する上での志を持っておくことは、悪くないはずです。もちろん常に絶対に必要だと考えているわけではなく、そもそもこのとき以来同じ体験にはあっていないので、また会えたら嬉しい、通じるものを見つけるだけで楽しいという感じなのですが。

 さてガルラジです。サービスエリア=日常生活と隔絶した空間から放送されるラジオ番組という手の込んだ設定は、間違いなく虚構と現実の線引きを曖昧にする物です。さらに完全リアルタイムで進む物語であるため、放送時間外の出来事は番組内で言及されなければ描写されず、それでも問答無用でパーソナリティは生活している。僕にとってはまさしく音波の向こうの世界を「思い出す」観賞体験そのもので、だからこそ、めちゃくちゃ強い衝撃がありました。おかげで一年半も同じ作品の話をし続けています。

 理屈ありきで聞き始めたわけではなく、好きな作品に共通する要素を勝手に見出しているに過ぎませんが、それにしても我ながら露骨な嗜好ですね。俺は単純にできている。ともあれ本当に良い作品なのです。出会えて良かったと思えるほどに……。

 当然、ガルラジの楽しみ方は人それぞれの幅があります。僕などほんの一例に過ぎません。色々な角度からの観賞に耐える事は「強い作品」の条件で、つまりガルラジは間違いなく強い。だからもしかしたら、まだ聴いたことのないあなたも、僕とは全く違う角度で刺されるかも知れません。『ガールズ ラジオ デイズ』一挙放送は、8月9日21時00分からスタートです。#2020年もガルラジ!

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