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写真の逆襲!

写真を主役に、絵画や立体作品を凌駕する宇宙的な広がりへ

「これは写真の逆襲だ!」と、多和田有希氏の作品を見て、驚きをもってそう感じた。
東京都写真美術館で開かれた「見るは触れる日本の新進作家 Vol.19」展(2022.9.2~12.11)を見ての感想である。

これまで、現代アートにおいては、写真は絵画制作の中で表現方法の一つとして用いられる、いわば脇役のような存在になりがちであった。しかし、多和田氏の作品は、写真で絵画や立体作品を創り出している。
つまり、写真が主役となって新たな表現を展開した作品であり、それはまさに「写真による絵画への逆襲だ!」と思った。

宙に舞う作品は、写真療法の効果も!

天井が高く細長い展示室に入ると、浜辺に打ち寄せる波を映した大判の紙焼き写真が、何枚も宙に舞うように飾られていた。

作品が宙を舞う

その波を撮った写真は、水の部分が焼かれていて、泡の部分だけが残されている。
そして、焼かれてなくなった部分からは照明の光が通り抜け、木漏れ日のように揺れながら床を照らしている。

水の部分が焼かれ、泡の部分だけが残されている
焼かれた部分から光が通り抜け、木漏れ日のように揺れる

部屋の中で同じ作品群が左右対称に並んでおり、その間をゆっくりと歩いて行くと、不思議な心地よさを感じるだけでなく、バラバラに破れ散ってしまいそうに繊細で、白いレースのカーテンのような写真を、両手ですくってあげたくなるような衝動に駆られる。

多和田氏は「写真療法のリサーチをベースに、人間の精神的治療のシステムをテーマに制作している。」(同展のフライヤーより)というが、その効果を感じ取ったように思う。

作品群が左右対称に並ぶ

この「I am in you」という作品は、東日本大震災が制作の契機になったという。海に対する複雑な思いが込められているに違いないが、逆にその作品に癒されるという奥の深さに感銘した。
見て感動し、引き込まれていく、そして作品の背景にあるコンセプトなどを推測して楽しめる作品だ。

写真が主役に

写真は独立した表現手段で、それ自体で作品として完結するが、現代アートにおいては、表現手段の一つとして他の様々な手段とともに用いられて制作されることも多い。

従来、絵画など平面作品を制作する際には、油彩や水彩などの絵の具を用いて描いてきたが、現代アートにおいては表現方法が多様化し、キャンバスなどの平面に写真をコラージュしたり画像を直接プリントしたりするなど、描く一手段として写真技術を取り入れてきた。つまり、絵画の中で使われる写真という位置づけであり、写真は主役ではなく利用されてきた名脇役であったように思う。

しかし、多和田氏の作品は写真で平面作品や立体作品を制作しているようで、写真が主役となっている。

引いていく描き方

多和田氏の作品は写真を主役に置き、絵画のような平面の写真を用いながらも、宙に浮かせたり、たわませたり、光を用いたりする展示方法で、立体的に展開させる新たな表現をしている。

しかも、写真のある部分を焼失させることで描き、その空白を通り抜けた光が床や壁面に射影して描いている。写真の上に何かを描き込むという「足していく描き方」ではなく、「引いていく描き方」と言った方がいいかもしれない。余白に見る禅の思想との共通点も感じさせる。

空白を通り抜けた光が床や壁面に射影する

燃やした写真を釉薬に

展示室には無機質なガラス板の上に、コーヒーのミルクピッチほどの小さな壺が横一列に並んでいる。そして照明の光がガラスを通り抜けて、壁面に影が映し出され、壺が床から生え出しているようにも見える。
見ただけでは色や形の違いを楽しむ程度になってしまい、写真展とは思えない空間となっている。

横一列に小さなツボが並ぶ

しかし、その制作過程を知ると、見方や感じ方が全く違ってくるから不思議だ。
多和田氏は教鞭をとる美術大学で、学生とともに「涙壺」というこれらの作品を制作した。
まず、学生に写真を持参してもらい、それに火をつけて燃えていく過程を見てもらう。そして、陶器の壺を作り、写真を燃やした灰を釉薬として使用するという内容だ。

私はそうした制作の背景を知った時に、「学生たちはどのように写真を選び、それが燃えていく過程でどのようなことを感じ、そして土を練ったり釉薬をかけたりする際にどんな思いを込めたのだろうか?」さらに「燃やすという行為と、水を入れる壺との関係とは?」などといったことが頭に浮かび、見るだけではなく想像が広がっていく。
「ファウンド・フォト」の延長上にありながら、紙焼き写真という形態が消え、釉薬として陶器に景色を描き出している。

制作過程での思いが込められ、映し出されている

宇宙にまで広がりを

多和田氏のこれら作品は広がりがあり、コンセプトもしっかりとした作品だ。もっと広い空間で展示してみたらどうだろう。

例えば、「越後妻有 大地の芸術」でクリスチャン・ボルタンスキーとジャン・カルマンがコラボレーションにより、廃校となった小学校で制作した「最後の教室」という作品の空間が思い浮かぶ。
展示されている小学校の体育館に「I am in you」を、教室に「壺の作品」を展示してみてはどうか。

山の中に海の作品と土の作品というわけだが、山の中で海は一層引き立ち、土は同質化するかもしれない。一方で、空間という物理的な広がりだけではなく、鑑賞者の思索や感動も宇宙空間のように限りなく広がっていくのではないか。

暗闇の中を裸電球が照らす
ガラスの棺が並ぶ教室

表現の可能性が無限に

「写真の逆襲」と感じたのは、作者の制作に対する意気込みを感じたからに違いない。そして、写真の持つ表現の可能性に、宇宙のような広がりを感じた展覧会でもあった。


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