【YouTube台本】結果は気にしない(神との対話を再読するチャンネル)
(この文章は私が運営するYouTubeチャンネル「神との対話を再読する」用の台本です。
そのため、口調が解説モードです。どうぞご了承ください)
みなさんこんにちは。
「神との対話を再読するチャンネル」です。
このチャンネルでは、90年代に出版されたスピリチュアルの名作、神との対話シリーズについて解説しています。
今回は、結果を気にしないというテーマでお話したいと思います。
みなさんは、新しいことにチャレンジする時、結果を気にしますか?
好きでやっている趣味であれば、結果は気にしないかも知れません。
しかし、本気で取り組むライフワークや天職であれば、できれば結果を出したい、
いやむしろ、結果が出てくれないと意味がない、と考えてしまうかも知れません。
意味がないと思ってしまって、最初から諦めてしまう。
ほんとうはやりたいことなのに、結果を気にし過ぎて諦めてしまうのは、
非常にもったいないことだと思います。
では、私たちはどうして、結果が出ないとやる気を失ってしまうのでしょうか。
それは私たちが、常に生産性を求められる資本主義の常識に、染まり過ぎているからかも知れません。
もしくは、人と競い合ったり、常に誰かから評価されるような立場に、
幼少の頃から常に置かれてきたことが原因かも知れません。
神との対話シリーズの神様は、やらなければいけないことはなにもない、と言っておられます。
また、人生に必要性というものはないし、神様から愛されるのに条件はないとも仰っています。
人生に、必要性はない。
愛に条件はない。
神との対話シリーズの神様は、本の中でそう繰り返しています。
私たち人間は、何かの成果を出すことは、神様から特に求められていないのです。
もし、私たちが、どうしても何かしらの結果を出さなければいけない、
あるいは、実績がないと格好がつかない、と思っているのであれば、
それは私たちが育った環境や、私たちが生きている社会全体が作り上げてきた雰囲気、つまり幻想であると言えるでしょう。
よくよく考えると、あのイエス様でさえ、十字架にかかることを避けたがっていました。
ルカによる福音書第二十二章42節(口語訳)によると、イエスは、
父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。
と祈っています。
しかし結局は、十字架にかかってしまいました。
イエス様でさえ、自分が思っていたような結果を得られなかったのです。
しかし彼は、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください、と祈りました。
結果を神に委ねることを知っておられたということです。
結局は、なるようにしかならない、と言ってしまうと、身も蓋もないでしょうか。
ですが、なるようにしかならないからこそ、結果なんて気にしてもしょうがないし、気にする必要はないのです。
スピリチュアルでよくありがちな、望んだものはなんでも叶うという言説は、とても魅力的に聞こえます。
しかし、私たち個人の意識が考え得る思考で望んだものがそのままの形でおとずれるというよりは、
イエス様が十字架にかかってもなお、その功績が世界に広がって讃えられたように、
時には生死も超越するような形で、あなたの魂レベルで望んでいることが実現されるようです。
自分が取り組もうとしていることは、イエスのようなハイレベルのことではない。
資格試験に合格したい。副業で結果を出したい。素敵なパートナーと出会って結婚したい。
あなたの願いは、そのような、個人的で現実的な、切実な願いかも知れません。
もし、結果を気にして失敗を恐れるがあまり、なかなか一歩を踏み出せないときは、
ちょっと大袈裟だと思われるかも知れませんが、先ほどのイエス様の祈りを参考にしてみてください。
父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。
仮に合格したかった資格試験に落ちても、
(私の思いではなく)
その試行錯誤が思わぬところで役に立つかも知れない。
(みこころが成るようにしてください)
望むようなパートナーとは出会えなかったけど、
(私の思いではなく)
家庭を持たないという自由を謳歌でき、世界を飛び回って活躍できるかも知れない。
(みこころが成るようにしてください)
イエスのように祈ることで、イエスのような復活劇が、あなたの人生にも訪れるかも知れません。
今回の動画は以上になります。それではまた、別の動画でお会いしましょう。