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哀愁漂う日々
ふと朝、仏壇の前に座って写真の中で笑う両親をしげしげとみた。
去年の今頃は、両親が2人とも亡くなるなんて想像すらしていなかった。
アルツハイマーになっても可愛らしくお洒落だった母親。
喧嘩ばかりだったが、子供の様に無邪気に振る舞い笑う父親。
それが今、写真の中に収まって2人並んで笑ってる。
何がどうなるのかなんて誰しもわからないし未来なんて予測出来ない。
それだから、未来に希望を抱く事も出来るんだろう。
例え最愛の人がこの世から消えてしまっても自分自身の人生は一緒に終わる訳には行かないし、明日は未来は望まなくてもやってくる。
だから前を向いて歩き出さなきゃならない。
俯いて悲しみに浸っていても何にもならない。
少しづつ今より一歩前進しなくてはならない。
時間は無限ではない、有限なんであるから。
老いや社会的有効期間には賞味期限もある。
でも後ろを向いて止まってた日々はあえて見ない様にしていた現実を否が応でも忘れたフリしていただけで気にしてない訳じゃなかった。
それがその気持ちがその不安感や後悔や軋轢があの日に一気に脳内に目の前に溢れてきた。
だから今その急激な流れに合わすための調整期間と思う事してまず落ち着いて一つ一つこなして行こう決めた。
今日は父親の病院代を振り込んだ。
両親の残した生きてきた残骸を処理するお願いをした。
自分の働き口の相談をアポした。
こうやって一つずつ両親の痕跡をこの世から消して記憶に変えてゆく。
明日何が起こるのか誰も知らないから貴方の事を思い出して都合の良い未来を
描く。
哀愁漂う日々は今日も続いてく。
続く。