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焦がれる砂丘。

2018年大晦日にどうしても行きたかったのは、やっぱりあの砂丘だった。


地元では白い砂の砂丘がある。海の砂は白い、と記憶して生きていると、11歳で初めて見た黒い砂浜は強烈だった。それを海ではないとすら感じるほどに、白い砂丘と海は私の中で硬く結びついている。


静岡県の駿河湾を囲む湾岸線がちょうど弧を描き終わる最南端に、御前崎港がある。名古屋から続く遠州の砂丘はこの地でちょうど途切れる。

本州の諏訪を頂点に、山脈の合間を大きな川が二股に流れ、右辺は大井川として駿河湾の内側に、左辺は天竜川として愛知県との境目である浜名湖付近まで伸びる。二股の川の間の底辺では、遠州灘を沖合に持つ白い大砂丘が、海と陸の境目を担っている。

この砂丘が30年も前には、二山はあった。就学前、夏の海水浴の思い出の一つは、砂丘の上にゆらゆらとざわめく陽炎だ。

それほどに砂は熱を持つ。海にたどり着くまでに、灼熱の砂山をビーチサンダルで超えなけれならない。崩さずに砂を踏み歩くというのは、大変に難しい。

いつも慎重に砂を避け歩くも、熱湯のような砂が足にかかり、叫んだ。最後は海の中へ足を突っ込みたい一心で、全力で浜辺へ疾走した。

その山が、あの時は二つもあった。毎夏あの砂丘の一山を越える頃になって、ビーチサンダルなぞで来てしまったことを砂の山頂で悔い、波の音をチラつかせ誘う次の山の陽炎を、恨めしく眺めた。

海が近づくと、白砂は海水で濡れ黒くなる。踏みつける砂の確かさが足裏に硬く返ってくる。足下の温度は急速に冷え、ああ海の近くになった、と更に速度を上げて波に飛び込む。

あんなに熱かった砂が、簡単に水に熱を奪われるのが不思議で、何度も後ろを振り返って足下を踏みしめた。

砂は石。焼け石に水を打ってもなかなか温度が下がらないが、砂にまでなってしまえば、水に容易く負ける。

大きな石や貝殻が砕け、このような小さな粒にまでなる。その先駆けは何十万年前だろうか。気が遠くなるほどの時間がかかっている。

休む間も無く毎秒、石は波の中で絡まり叩き合い、この地の風と水は見事に白い美しい砂丘を作り出した。

この素晴らしい砂丘はどこからやってくると思うだろうか?もちろん、海からやってくる。だが、さらにその元はと言うと、先ほどの二股の内、左辺の川である天竜川が運ぶ、岩なのである。


山脈から使者のように流れ来る天竜川上流には、人を寄せ付けないほどの猛々しさがある。創造神がいると言う人たちが、もしこの岩の成り立ちの根拠を、そうオブラードに包むのだとしたら頷きたい。
360度どこを見渡しても、人の手のつくしようがない巨石だらけだ。厳しさを纏う岩たちが、ちっぽけな軟い体の人間を見下し嗤う。

その巨石群は、川を下るにつれ丸く小さくなる。角が取れ、民家の横を流れ、人との距離は縮まる。そうなると、もう誰も目に止めない。たわい無い小石の一つなど注目は集めない。だが、例え人の目に入らないからと言って、あの巨石が消えたわけではないと、砂丘は雄弁に語る。



砂丘の根元である波打ち際には、小さな丸い小石がゴロゴロと転がる。砂利のような粒もある。それらは小さな波が、何秒か毎に休む間も無く運んでくる。薄いガラスのような泡波は、遠州灘という母の懐から、砂というお土産を陸へ届ける。

遠浅の遠州灘は、その下に大量の砂利と砂を有しているがために、浅瀬が広く、そして突如海底がえぐれるため危険で、今では遊泳禁止になってしまった。それも、20年ほど前の話だっただろうか。

人の作る勝手な規則を、子ども心に不可解なものと感じていた。砂丘は何も変わっていないのに。


わたしは18歳で地元を離れて以来、この砂丘で遊ぶことはなかった。

数年前、息子を初めてここに連れてきた時、もう砂丘には一つの山しか無かった。わたしの老いた親のように砂丘は、いつのまにかその姿を変えていた。



大晦日に潮干狩りをする人はいない。勿論、裸足で砂丘を駆け上がる人も。わたしたち以外に。
わたしは息子と靴を脱ぎ、砂丘を登り始めた。大晦日なのは、たまたまだ。


冬の、特に夕方の砂丘は想像以上に冷たい。足の指には、氷水に浸したような刺激。冷たくて痛い。既に半分後悔し始めているが、冷たさの正体を探りたくて腹をくくる。そうだ、海へ向かう北側の斜面には陽が刺さない。それがただの数時間だとしても、砂の温度は抉るように下へ弓線を描いた。

太平洋側で生まれ育ったわたしは、太陽の暖かさは常に海側から注ぐものだと信じているところがある。陽の温かさと向きを、方位磁針の正確さで体に記憶している。
わたしだけじゃない。この地で育ったものの身体には、何世代にも共通する記憶がインストールされる。


素足の感覚がなくなりかけた、ちょうどその時、砂丘の頂点にいた。海に沈む夕陽が最も強く差した。夕刻になり斜陽がさらに傾き、太陽とわたしとが直線で結ばれたのだ。
ダイレクトに浴びた陽に、砂が熱を迎える。あの冷たい砂が、徐々に温もりを蓄えた。冷えた素足には、ほんの僅かな太陽の恵みさえ、動きたくなくなるほどの安心感を与えてくれる。この数分は、どれほど莫大なエネルギーの恩恵であるだろうか。

この熱源の、強く激しく、どこまでも柔らかで優しいことを、皮膚を通してわたしに沁み入る。冬の砂丘の語りは、巧みだった。

さて重要なことは一つだ。砂丘が、今、一山だけとなってしまった。

聞いた話では、天竜川にダムが作られてからというもの、原料である岩が流れて来なくなったためだという。父から岩の供給を絶たれた上に、遠州灘からの強いからっ風が、砂を東へ陸へと吹き流しているのだそうだ。砂丘は常に削られ続けていく。

ふと見ると、砂丘の片隅に重機があった。砂丘の再生工事を行っているとの看板も。

あの砂がどれほど自由に、聞き分けがなく流れるものかを、よく知っている。この重機の力が対処療法に過ぎないことなど、分かり切っている。


あの30年前の、二山あった砂丘の記憶が、どうしようもなく身体の奥底から剥がれない。風が削るというのなら、記憶を持つ人間が行えることは、盛り直し続けること、それのみなのだろう。それはわかる。

わたしがここに息子を連れて来たように、同じようにここから、子どもに何かを残してやれないかと祈るのかもしれない。


もう30年もすれば、息子はいい年のおじさんだ。もし彼がここに誰かを連れてきたら。この砂丘を見せたい誰かが居たとしたら。それが親としてなら、なおさら。せめてこの一山だけでいいから、残っていてくれないだろうか。残してくれないか。

砂丘の再生工事を考えた人の井戸とわたしの井戸は、きっと同じ地下水脈で繋がっている。

気まぐれな遠州のからっ風は、どこ吹く風という体で、強く大きく吹いた。
わたしのお願いなど聞く耳もないのだ。このどうにもならない風を前に、わたしに残るのは葛藤ばかりでもない。彼らが言うことを聞いてくれないなど、そんなことは、もうずっとずっと小さな頃から知っているのだから。

帰り際、砂丘を振り返るのは、一度だけと決めた。自分以外の誰かに持つ期待を、放つのに十分な、強い風なのだ。

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