小学校での読み聞かせ。物語の力を届けたい大人より。
気温差と気圧差が、海嶺のように高まるかと思えば、引き潮にさらわれた砂のように削がれる。
そんな師走のスタートと共に、子どもの不調が続いている。熱が出ればまだわかりやすいと思いながら、休んだり登校したりを繰り返し、張り詰めた糸を体から緩ませる日々だ。
その調整のさなか、今日は読み聞かせの日だった。
子どもの通う小学校では、保護者が順番で本を読み聞かせている。
学校公開日と違い、普段のクラスの子どもの様子を見れる機会でもある。この『朝の15分』は、保護者に人気が高い。PTA選出では上がらない手が何本も上がり、リピーターを希望する声も多い。親だって正直者の集まりだ。
前日に図書館に向かい、選んだ2冊の中で迷った。
結局、谷真介さんの『九ひきの小おに』を選んだ。
タイトルと中身だけで選んだのに、前回と同じ谷さんになってしまった。そう気づいてもう一冊の『かみなりむすめ』と迷ったが、読みながら泣いてしまいそうでやめた。
朝からしんみりした大人の姿を見せてもいいが、そのしんみりが息子に変に受け取られないかと、気になったのだ。まあ、もう前日に、1人で読んで泣いていたのは、見られているのだけど。
もし時間があれば、阿部夏丸さんの『ざりがにさいばん』を一番選びたかった。
小魚とザリガニの間で繰り広げられる「弱肉強食関係における生死の善悪」を裁くというお話だ。この人の本を読むと、子どもを舐めてない、という感想を持つ。矛盾を孕む答えのない問いを、簡単に優しく投げかけてくれる。どれも良書だとおもっている。
さて、選んだ『九ひきの小おに』は、船に乗って人間の世界まで旅をする。九通りの人柄を持つ小おにたちが、旅の途中で起こるアクシデントに、それぞれの特性を発揮して活躍する。仲間内で意地悪をしたり、守ったりしながら。それが、最終的に同じ性格の子どもの中へ、船から「のりうつる」。そのさまが、魔が差す、という言葉に似ていて面白いのだ。
この子達もこんな年齢にいるのかもしれない。
この絵本では、意地悪な鬼の子の発言がとても多い。その意地の悪さを、本当に意地悪く読めば「世の中にはこんな人っている」とおもうのだ。
このクラスにだって、こんな話がもう出てくるようになっていた。
一年生のときは、船に乗ったばかりの小おにのように、ただ皆で旅に出たことを楽しんでいただろう。慣れと、成長と共に、徐々に澱は溜まる。
どんなことが学校で起きたのかについて、親たちは敏感だ。家で泣いた理由、道で見かけた子ども同士のアクシデント、家に遊びにきた子どもたちの様子を、親たちは密かにささやき合う。
大っぴらになる話ばかりでもないが、当人同士の中で解決する小さなことから、クラスで話し合いの時間を持たれた理由まで、意外と耳に入る。
ちょっとした意地悪をする子と、それに加担する子。
意地悪をされたことのある子と、され続けている子。
意地悪されたことのある子が、し返した話。
小さな仲間内で起きたことに、客観的な主観を持ち出せる八歳もいる。悪いことを悪いと、先生に言える子もいれば、その場で諫める子。黙ってみている子。
八歳の集団の中には、パーテーションで仕切れない道理がいくつも混在するようだ。
彼らは、クラスというパレットの中で、少しづつ、自分の役割を作っていくのだろうか。自分が、どこに居られるのか。それを見つけられること自体は、ある意味で、居場所作りの力があるのかもしれない。
ただ大人のわたしからすれば、意地悪をする、という居場所に、自分を納めているようにも見える。それがその子を表す全てではない、ように見えるのは、わたしが年を取っているからかもしれない。鈍感になっただけかもしれない。ちなみにうちの子は『意地悪されることがあるが、言えない子』の部分が大きい。
人に優しくしなさい。
友達を大事にしなさい。
そんな言葉に容易く納得できるようなシンプルな世界に、もう住んでなどいないと子どもたちに叫ばれているような気さえする。
何を見ても泣いてしまいそうになるのは、大人だからかもしれないし、人の親だからかもしれない。
話の途中で、意地悪な子おにの発言にくすくす笑う子もいる。だんだん落ち着かなくなる子。見入ってくれる子。下を向く子。
大っぴらにしてから、どうするのか決めてみてもいいんじゃない?
意地悪を意地悪だと、気兼ねなく大っぴらにしてみれば、このクラスの誰だってそうだって言えるんじゃない。
意地悪な子おにを、意地悪で気持ちが悪いと感じるのは普通のことだ。
でも自分のこれは、意地悪な子おにのせいだと思ったっていいじゃないか。
誰の中にも九人くらいの子おには、いるよ、と思う。
ご察しの通り、これは、ただの物語だけど。
ねえ。
君たちにまだ、ファンタジーの力は、届きますか?
そう祈りながら読み終えた。
子どもの力をこんな風に信じてる大人だって、いるんだよ。