100記事目のご褒美をもらう。
くりえさんの記事に触発され、ようやく書くぞ。とおもった。
というのも、ここ2週間にまさにこんな「今まで自分が病んでると思っていたこと」を人に話す機会に恵まれたのだ。
家族や、友人や知り合いが死んだとき、わたしの夢に現れた。
子どものときは夢がじぶんに教えてくれるものを信じていて、夢日記をつけていた。それは何日か経つと必ず現実になった。
起きることを先に知る、もしくは死んだあと何をしているのかを知って、わたしは故人を想ったり笑ったり、安心したりした。
全ての出来事を知るわけではないし、例えば重要な事故を回避できたとか、そういうことでもない。
ただ、初めての場所なのにきたことがあったり、好きな人とお茶を飲むとこの人と付き合っている自分を知っていたり。本当に恋人になったりした。
そういうことは学生時代までは多かった。
夫と初めて会ったときは、ようやく出会えたとおもった。自分の中の暗号を送ると、それは見事に返ってきた。
これはうまく説明できないけれど、ちゃんと答えが降ってくる。いや、湧いてくる。
そういう一人遊びのようなことを、いつもどこかでしていた。
これは妄想なんじゃないかと、わたしはどこかおかしいんじゃないかと、いつからか怖がるようになった。
7年前、子どもが1歳のとき、家の中がいつもと違う日々があった。それが何日か続く。
玄関から、この家に、誰かが入ってきている。男。
生きていないことはわかる。全身の毛が無い。全体的に赤黒い。ひどい火傷をしているのだろう。
でも、なぜそう思うのか説明はできない。
姿が目の前に見えるわけじゃないのだ。網膜で捉えていないのに、頭の上にスライドがあって、そこには現実で見ている景色の上に何が載っているのか表示されている。
頭の中にテレビがある。それは視聴チャンネルを切り替えるような感覚なのだけど、リモコンのように自動で操作しているわけではない。
あ、まずい。
このまま見ていたらマズイやつ。
その男は寝室には入れないので、わたしはいつも子どもを寝室に寝かしつけながら、来るなと念じながら寝た。見るな。とも。
そんなことが続いたある夜中、目を覚ましたのか寝ていたのかわからない。
ついに耳元で声がした。
男の声で何かを話している。聞きたくない。聞けない。もう死んでいるんだ、語るな。帰れ。気が付け。
この想いは、きっと通じない。と知っていた。男のことは、怖くないんだ。わたしは伝えきれない。だってその男は影なのだ。本当の中身はその姿の中にない。残像にすぎない。
夢だったのかもしれない。きっと夢だ。
そう思う数日後、今度は風呂に入っているときに3歳くらいの子どもが、風呂のドアを叩いた。飛び出して寝室に入り、子どもの寝ている姿を見て安心した。そして、この子のわけがないとおもう。
あの子は、うちの子ではなかった。だって、1歳のうちの子が立ち上がってあの高さでドアを叩けるわけがない。
その日々を何とかしようとして、わたしはチャンネルを閉じた。
その後、ここ1年の間に、今度は体のコントロールが効かない機会が増えた。
例えばカラオケに友人と行ったときは、正体不明の涙があふれることがあった。説明ができない。「会いたい会いたいもう会えない会いたい」思いと言葉があふれる。冷静なじぶんは思う。こんな風に今会いたい人なんていない。これは誰?誰の気持ち?
わたしじゃない。なぜ。
「ねえ、これ、誰か死んだ人に歌ってない?
誰のこと考えてる?」
「え!?」
本当にそうだった。もう5年くらい前に亡くなった友達が好きな歌だったそうだ。
まじかよ。
特に歌や、絵、にはどうしようもなく反応する。
体が、勝手に。わたしを置き去りにする。
例えばパワースポットと言われる場所で、説明のつかない怒りや悲しみで、感情が勝手に燃えることがある。
多摩御陵、生田緑地などで実験しにいった。都内にはいくつもそんなスポットがあるのだ。
合うところと合わないところを、わたしは体で判断する。
左半身か右半身が合わない、合うで、反応する。東名高速道路は乗っているだけで、体が反応する。高尾山トンネル、愛鷹山付近では耳と目がマヒする。
そんなスイッチがどこにあるというのだろう。
わたしの視床下部が情報をどう処理しているのか、正確に知りたい。そんな気持ちで、脳の本と精神疾患の本も読み漁った。
けれど、なぜそう感じるのか説明がつかない。
読めば読むほど、わからなくなる。
わたしだけおかしいんじゃないか。
その気持ちが大きくなればなるほど、じぶんが自分から乖離していく。これらにまつわる出来事ばかりが増えていく。見たくないのに、聞きたくないのに、前よりも聞こえてしまう。ヤカラ先生はその一幕だ。
だけど、あの映像が、本当ではないことを、頭のどこかで知っている。
ヤカラ先生はわたし。
ずっとずっと隠して生きてきた、わたしのこの部分。
あまりの恐怖と困惑と、孤独が、あの男として乖離させたのだとおもう。
ここまで赤裸々ではないけれど、ずっと自分のおかしいと思ってきたことの一部分を、2週間前に、何人かの友人を含む人たちの前で、初めて話した。
中には、「見えるんですか?いつからですか?どうしてですか?」と聞いてくる人もいたけど、わたしが信頼している人は、「そうなんだーおもしろい!るんばなら見えてそうだよねー!」と笑ってくれたのだ。
うれしかった。
ほかにも本当に思っていることを話せた。
実家がお化け屋敷であること。
こんな見えない世界にすがった人の末路を見てきたこと。
それで悲しい思いをしてきたこと。
いつかわたしも、頭のおかしい人になってしまうんじゃないのかという、恐怖。
それを話したのに、そのあとも、変わらない友人として付き合ってもらえていること。
それが、こんなにも有難いこと。
だから、見えたことを否定するのは、もうやめようとおもうこと。
説明を求めなくて、いいじゃないかという気になってきた。
コントロールできないことを、コントロールしようと躍起になることも、もういいんじゃないか。
じぶんのこの部分を「なんか変だよな」と感じる反面、「誰にだってできる」と信じている。
「ねえ、わたしだけじゃないよ、これきっと」
「うそつき」と思われることが、悲しかった。
だけど自分で立証できない。
それが大きな、自己不信になってしまっていた。
わたしもこれを、ただ自分の感性や感受性がそういうものなのだと、まったくくりえさんと同じようにおもっている。
同じ言葉で、そう表現されているのを見て、言葉にならない感情が心の中に吹き荒れた。
わたしは、そこそこに嘘もつくときもあるけど、ただ、正直な人なんです。
言葉がすきだけど、言葉を使うのがとても下手で、子どもが可愛くて、ご飯を作るのが好きで、今は重松清にハマっていて、子どもと野球を観るようになって、キャッチボールがうまくなった。
幹事が得意で、接客には定評がある。
手先が不器用だけど、舌と鼻は敏感で、耳は聞きたいことしか聞き取らない。よく忘れるけど、大事な時には思い出せる。
夫が帰ってくるのが嬉しくて、家族でそろっているだけでうれしい。
正直で、そしてとても真面目で、そこそこに不真面目な、普通の人なのだ。
見えてもいいじゃないか。普通の人なんだから。
100記事目がまさかこんなことになるなんて、note始めたときは、思いもしなかったけど、そんな風に。
そんなふうなかんじなんだな、ご褒美って。