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インシデンツ(2)

季節は春から夏になっていた。次のクライアントも保険会社だった。ぼくはこの夏のことを生涯忘れることはないだろう。
この現場でぼくの残業時間は、月に一五〇時間を超過した。しかも三ヶ月連続で。過労死ラインを大きく超える大ジャンプを連続三回だ。スキージャンプの原田選手が僕のジャンプを見たら感動して涙を流し、目の下に巨大なつららを作ってしまうだろう。そして、船木の代わりにぼくの名前を泣き叫ぶのだ。
医療保険の請求をする際に提出する書類をインターネット経由で提出できるようにする。そのために顧客向けのホームページと、社内の事務システムを結合するという開発案件だ。ぼくがマネージャーで、サポートで神田さんがなるべく支援をする、という手厚い体制だった。
多忙な神田さんがチーム・メンバーとして体制図に組み込まれていたのには事情があった。この案件はクライアント企業のCIOから社長に対して直々に回されてきたものだった。このCIOもかなりのクセモノで、あちこちの保険会社の情報システム系の役員を渡り歩く業界内の有名人だった。自分の手下のようなスタッフをその時々の所属の会社に引き連れ回して仕事をさせ、本人は自分よりも上の役員連中へと自分の手柄をアピールし、優れたCIOの雰囲気を出すのが得意といったタイプだ。ドラマの登場人物なら堺雅人に弱みを掴まれて成敗される輩だろう。

不穏だったのは、このCIOと勤務先の社長の関係だ。彼らは二〇年に及ぶ盟友同士……というか、もう少し正確に言えば、主人と下僕の不平等関係を結んでいた。CIO様にお手柄を献上していい気持ちになっていただき、社長はおこぼれをいただきます、という極めて怪しい関係だ。大切なお客様から賜った案件を失敗させるわけにはいかない。ということで、入社して日が浅いマネージャーのぼくをサポートするのに神田さんがお目付け役となった。
ただ、神田さんがサポートに入っていてもプロジェクト開始前からぼくの配下のチーム体制には拭い去れない不安があった。プロジェクト開始の二週間前の時点で、開発者がひとりも決まっていなかったのである。
普通、開発案件を提案する際は、クライアントに「弊社はこういう体制で開発しますので」と示したものが提案書に含まれている。しかし、この案件を受注した段階で社長が提出していた体制図には、ぼくの配下に名前の記入されていない四角の箱が四つぶらさがっているだけだった。箱の中には本来、メンバーの名前が書かれている。名前の代わりに弊社保険有識者 ※TBDという記載がある。To Be Determined、つまりメンバー未決ということだ。

そのうえ都合が悪かったのは、保険の知識を持った開発者が、社内を見渡してもぼくしかいなかったことだ。プロジェクト開始前にマネージャーであるぼく課されたミッションは、空いているTBDの箱を埋めることだった。

エンジニアなら金を積めば集められる。一〇年以上ITに関わる仕事をしていたわけだから、ぼくにもソフトウェア開発会社とのコネクションがあった。頼めば仕事を受けてくれる信頼関係も築けていたと思う。問題は、まっとうなエンジニアを雇えるだけの予算がこのプロジェクトに積まれていなかったことだ。
期間は四ヶ月。そのうち実際の開発期間は三ヶ月(あとの一ヶ月はリリース後の重点監視期間として待機しつつ、保守チームへの引き継ぎ期間になっていた)。見積もり金額は、二四〇〇万円。内訳はぼくひとりの単価に月に二〇〇万円、そのほかのエンジニアが月に一〇〇万円ずつ。そのほかのエンジニアは外注する必要があるが、利益率二〇%は確保しないと承認されない規定があるから、月八〇万円以下で雇えるエンジニアを探す必要がある。

さて、月八〇万円で雇えるエンジニアなんているのだろうか? 勤務先の新卒社員だって八〇万円の月単価で見積もりをしているのに? しかも、必要なのは何もできない新人エンジニアではなく、三ヶ月の開発期間でものを作り上げられる技術力をもったプロフェッショナルだ。まず、日本人エンジニアでは無理だろう。ぼくは自分のコネクションや、神田さんのツテ、あらゆるチャネルを使って人を探した。ぼくらの会社からさらに業務委託を重ねていった先にいる外国人エンジニアと面接を続ける二週間を過ごすこととなった。多重請負のリゾームを駆使した格安外国人エンジニアの確保、IT業界の闇だ。

面接はいつも一九時からセッティングされていた。西新宿の高層ビルの一角に面接用の会議室があった。たどり着くまでには、蒸した地下道を通り抜ける必要がある。地上に出るとそこがいまだ三〇℃を超す熱帯夜であっても、風がある分いくらか涼しい。ビルの麓にある植栽で囲まれたエリアには、提灯で飾られたビア・ホールが開催されていた。ソースの焦げた匂いや、フランクフルト・ソーセージが焼ける匂いが漂っている。一九時。普通のお気楽なサラリーマンなら冷えたビールのジョッキの縁に口をつけているべき時間だ。しかし、ぼくには毎回暗い気持ちになる面接が待っていた。
会議室の下座にはぼくと神田さん、上座にはベトナムや中国から働きに来ているエンジニア、そして彼らの日本での雇用関係を取りまとめている会社の社長が座っている。社長は王さんと言ってぼくと同じ年代、三〇代なかばに見えた。「大丈夫です」と「がんばります」が口癖の杭州出身の小男だった。
「まずは、左に座っている方からお名前と簡単な経歴を教えていただいて良いですか?」
王さんから面接に参加してくれたエンジニアの経歴書を受け取ると、簡単に今回の案件の説明をしたあとで、ぼくが切り出す。しかし、五人中二人は、日本語で自分の経歴を説明できない。いや、日本語で話しているようなのだが文章として理解できない。技術的な質問をしても質問が理解できない。面接の時間は一時間確保していたが、質疑のやりとりが成立しないので毎回三〇分もかからずに終わった。
「お忙しいところ、ありがとうございました。本日の面接はこれで終了します。結果については王さん経由でご連絡させていただきますのでご退出いただいて結構です」

「あ、ちょっと、このあと王さんだけ残っていただいていいですか?」とエンジニアを退出させたあとに王さんに声をかける。王さんは北京語(たぶん)でオフィスの外で待っているようにエンジニアに指示して椅子に座り直す。王さんの顔はすでにこわばっている。
「王さん、こうしてね、時間がないなかで、人をあつめていただいているのには、感謝します」
神田さんがまず話しはじめた。ぼくを「野原ちゃん」と呼ぶときとはまったく違う口調だ。丁寧だが、重さを感じる沈黙をはさみながら一言一言を区切っている。いらだちを自制するような話し方。王さんのまばたきが多くなる。
「しかしですよ、さっきの趙さんと梁さん、日本語能力試験で一級と書いてありますが、これは本当ですか? まったく受け答えができていませんでしたが」
「も、もしかしたらですね、き、緊張していたのかもしれません。あとはずっと、昔に試験は受けていて、そのあと日本語がヘタになってしまったのかも」
「ふたりとも、日本でずっと働いていたんですよね? ずっと日本で働いているのに、日本語が下手になることってありますかね?」
「うーん、詳しいところはわからないですね。趙さんも梁さんも、うちの会社の正社員じゃないから。もしかしたら一級レベルはある、ってことで書いてたのかも」
「それじゃあ、経歴詐称じゃないですか! 正社員じゃなくてもウチの窓口になっているのは王さんですよね! じゃあ、王さんの会社経由になるんだからそこは責任をもってもらわないと困りますよ!」
神田さんの声が大きくなる。王さんは軽く咳払いをして、目の前にあったお茶のペットボトルに口をつけてから話しはじめた。
「あの、会話するのは苦手かもしれませんが、日本語のドキュメントは読めると思います。大丈夫です」
「そんなの信じられるわけ無いでしょう!」
神田さんの怒鳴り声に、王さんの肩が漫画のように震える。

「問題は日本語だけじゃないですよ。王さん」とぼくが今度は言葉を継いだ。
「こないだも同じことをお願いしたと思いますが、こちらでお出ししているオーダーと集めていただいているエンジニアの方のスキルが全然マッチしてないんですよ。ちゃんと我々のお願いを理解していらっしゃるんですか? 王さんも元々エンジニアだったんですよね?」
「はい。でも、ですね、急な話でしたし、とにかくはやく面接を組んでほしいとおっしゃったのは野原さんですよね」
「たしかにお願いしましたよ。でも、わたしは開発ができる人を連れてきてくださいとお願いしたはずです。テストしかやってないとか運用管理をずっとやってきた人はこないだもNGを出したじゃないですか。なんで同じようなスキルの人を面接に出席させるんですか」
「も、もしかしたらOKがでるかな、と思いまして」

首の付根から血が頭に昇ってくる感覚があった。「わかりました。でも、次は日本語のところとスキルマッチのところをもう少し良い精度で持ってきてくださいね」と怒鳴りたい気持ちを抑えてお願いする。

「がんばります」と言って王さんは席を立つ。顔の緊張がすでに解けている。その場から離れられるのが嬉しくて仕方がないというのが伝わってくる。会議室にはぼくと神田さんが残されていて、同じタイミングで深くため息をついた。会議室の外から中国語が聞こえてくる。なにを話しているのかはわからない。ぼくたちの悪口かもしれないし、経歴書の正確さに関する苦情かもしれない。

こんな面接を二週間で四回繰り返した。二二人の外国人エンジニアと面談し、そのなかから三人のエンジニアをなんとかピックアップした。クライアントから見て何次受けの業務委託だったのかはわからない。四人目のTBDは埋められなかった。埋められなかった分のエンジニアの作業はどうなったのか。再提出された体制図上のぼくの肩書きには「全体統括マネージャー」の横に「エンジニア」と書き加えられることとなった。

店の管理もして、調理場にも立つブラック居酒屋の店長、そのIT版がぼくだ。


後から知った話だが、他社はこの案件に対して二億円の見積もりを出していた。それぐらいないとリスクが高すぎて四ヶ月では開発できないし、開発規模的にもそれぐらいかかる、ということだった。あまりのリスクの高さに提案書をだしてこない会社もあったらしい。このクライアントは、開発だけではなく開発工程を進めていくための工程管理や承認会議も異様に厳密で、開発工数にはその分の手間も上乗せしておく必要があった。ぼくたちはそんなこともまったく知らずに、異常な激安価格で受注してしまっていたのだ。危険な臭い。プロジェクトを炎上させる火種ははじまる前からくすぶっていた。
ぼくたちのチームの進捗は、すぐに遅延しはじめた。人が一人欠けていることもあったし、プロジェクトがはじまってみると見積もり時点で想定していた話と違う話がいくつもでてきた。

一般的に大企業のシステム開発の現場では、アプリケーション開発と、ミドルウェア・ハードウェアなどのインフラ開発は分業体制が取られている。住宅建築に置き換えるならば、基礎工事はインフラ屋さんが担当し、そのうえに乗る上モノはアプリ屋さんでお願いしますよ、という分け方だ。このプロジェクトも同様にぼくらはアプリ屋さんとして呼ばれているのだと思っていた。が、ぼくらはインフラ部分の設定からやっていく必要があったのだ。
まともな見積もりが行われていたならば、その考慮漏れにクライアントからも指摘が入っていただろう。恐ろしいことにクライアント側の担当者も、開発業者に仕事を丸投げしているのが常態化していたから完全にスルーされていたのである。
さらに悪いことに、ぼくらのチームには、インフラ部分まで熟知しているエンジニアはひとりもいなかった。
「ちょっとだけ、このミドルウェア触ったことあります」
手を上げてくれた韓さんがつきっきりでミドルウェア部分の設定を担当することになった。これでアプリ開発のエンジニアはさらに一人減った。
建築現場なら基礎から順番に作業を進めなければ家を建てられないが、ソフトウェアの開発はウワモノだけ先に書きはじめることができる。ミドルの部分がちゃんとできるかわからないが、ひとまず先に進めよう。進められるところからはじめて最後に帳尻を合わせれば良い。ぼくらは前に進もうとした。
スケジュール管理をするExcelファイルには、作業単位に開始と終了予定が設定され、遅延が発生すると行の色が赤く変わるようになっていた。Excelはプロジェクト開始二週間で真っ赤に染まっていった。
「稼働をあげてなんとかキャッチアップできるようにします。まだプロジェクト開始直後で日が浅く、開発環境の理解も進んでいません。理解が深まれば進捗も改善していく見込みです」

こんな言い訳を細部のバリエーションを変えながら繰り返していたと思う。神田さんもクライアントのCIOから呼び出されてプレッシャーをかけられていた。

問題はミドルウェア部分だけに起きていたわけではなかった。アプリ側のリーダーをまかせていた呂さんがある日「このフレームワークは、触ったことがない。実装方法がわからない」と言い出した。作るべき顧客向けサイトのデザインは先に決まっていた。そのデザインどおりにページを作ることはできる。しかし、ページのボタンをクリックして次のページに遷移する方法がわからないという。
「調べればわかると思うけど、時間かかると思います」
また人員のミスマッチだ。

「ほかの会社さんはこの環境でも普通に開発してますけどねえ。御社のメンバーに問題があるんじゃないですか?」とクライアントの担当者は言った。事前にもらっていた情報と違うフレームワークがでてきた時点でクライアント側にも責任がある。しかし、この担当者は業務委託をしたらあとの仕事は、業者まかせ、オートマティックに進行するものだと思っているらしかった。

プロジェクト開始から三週間が経過し、それまで週に一度設定されていた進捗報告会が毎日朝晩開催されることになった。進捗率が回復するまで毎日細かく報告をしろ、ということだった。ぼくの役目はそこでスケジュールの遅れに対する対応策を報告することだ。この会議の準備がぼくに重くのしかかった。昼間は毎日メンバーに進捗や問題のヒアリングをし、中国人エンジニアが書く設計書の日本語の間違いを訂正した。エンジニアたちが帰ったあと、暗い時間になってから真っ赤になったExcelファイルを開いた。そして計画の線を引き直し、帳尻を合わせる方法を見つけようとした。神田さんもそれに付き合って、どうやったら翌日の進捗報告を乗り切れるのか一緒に考えてくれた。
電車では帰れない日々が続いた。作業は日付が変わって二時すぎまでかかることがあった。そうなると毎回タクシーで帰った。現場はクライアントの電算センターと呼ばれるビルで、南武線の立川、西国立、矢川という三つの駅からそれぞれ同じくらい離れ、陸の孤島めいた住宅街に建てられていた。深夜に流しているタクシーもいなかった。

「野原ちゃん、タクシー呼ぶなら個人タクシーにしたほうが良いですよ。どうせ同じ値段でしょ。でも個人タクシーのほうが車もいいし、乗り心地が全然違いますからお得ですよ。翌朝の疲れが違いますよ」
神田さんはそう言ってぼくに東京都個人タクシー協同組合の電話番号が書かれた名刺をくれた。タクシー評論家のようなもの言いだし、さすがに慣れている。翌朝の対策を終えると、ぼくは自分と神田さんのためにタクシーを呼び、近くのコンビニで買ったビールを飲みながら車を待った。ビールはいつも神田さんが買ってくれた。

神田さんに言われて初めて気にするようになったが、たしかに個人タクシーと普通のタクシー(大体はトヨタ・クラウンコンフォート)とでは乗り心地が違っていた。立川周辺の個人タクシーの運転手は、一四代目と呼ばれるモデルのクラウンのうち、アスリートと呼ばれる少しスポーツ寄りのグレードを好んでいるようだった。まれにホンダのレジェンドや日産のスカイラインもあった。同じクラウンの名前を冠する車でもコンフォートとアスリートではまったく年式が違うから、そもそも比較には適さないかもしれない。しかし、静粛性やシートに座ったときの心地良さはアスリートのほうが格段に上だった。個人タクシーの後部座席に深く腰を掛け、飲み残したビールを飲み終えると家につくまで短い睡眠をとった。
奇遇にも三晩連続で同じ運転手にあたったことがある。
「こんばんは、野原さんですよね、今夜もよろしくお願いします」
暗いせいで顔はよく見えなかったが、落ち着いた柔らかい声の運転手だった。後部座席からはヘッドレストからはみ出した白髪頭だけが見える。
「あれ、昨日も一昨日も一緒でしたね。専属の運転手みたいだな」
「はい。毎晩お疲れさまです」
三晩目にはぼくが行き先を告げる前に運転手は車を発進させた。クラウンマジェスタ。見た目こそアスリートとほとんど同じに見えたが、内装はよりゆとりを感じさせるグレードだ。値段もアスリートの一.五倍ぐらいする。立川周辺からぼくの家までは多摩川を越えて、多摩丘陵の起伏やカーブを抜けていく必要があった。マジェスタのシートは乗客を大事な卵のように包み込む。急なカーブでも乗客の眠りを妨げない。極上だ。家につくまでにはよだれで首元が汚れている。
家につくとシャワーを浴びて、妻と子供が寝ているベッドに潜り込む。そして、また朝の進捗会に出るために家を出る。ベッドでは三時間も眠れなかった。食事は昼も夜もコンビニで買ったもので済ませていた。自分の身体がだんだんとだらしなくなっていくのがわかった。脇腹の肉が目に見えて増え、へその形が変わっている。顔のラインに締まりがなくなった。顎のヒゲにも白髪が七本混じっている。


「今ある技術的な課題に対してはアドバイザーをつけます。御社でも仕事をしたことがある技術者の手が今空いているようです」
クライアントの会議最中に神田さんは提案した。裏では、どうやらCIOから懇意にしている技術者をチームに参画させるよう要求されていたらしい。一ヶ月雇うと四〇〇万円かかるそのエンジニアの時間をぼくらのチームは、〇.一ヶ月分買った。時間でいうと一六時間分の技術アドバイス・チケットだ。呂さんが抱えていた問題は、そのおかげで解決することができた。しかし、ミドルウェアの問題は残った。頼みの技術アドバイザーからも専門領域外という理由で介入を断られていた。
アプリは少しずつ形になり始めている。しかし、サーバー上でそれを動かすための仕組みが準備できていない。韓さんは日本語のドキュメントを苦労して読みながら仕事を前に進めようとした。しかし、彼に見せられた画面は大量のエラー・メッセージが表示されたものばかりだった。

「御社でお仕事されている他社の方に設定を教わることはできないんでしょうか?」とぼくはクライアントの担当者に質問した。

「あのね、野原さん。他社の方はちゃんと自分たちの仕事をやっているんです。あなたたちの仕事を手伝う余裕も義理もないでしょ。自分たちで受けた仕事なんだから最後まで自分たちでケリをつけてくださいよ」というのが返事だった。

担当者も上司からプロジェクトの遅れについてしつこく訊ねられ、日々いらだちを募らせていたらしい。そのいらだちがぼくたちへの嫌がらせや攻撃になって飛んでくることもあった。ぼくたちの作業スペースは何度も席替えさせられた。各メンバーがバラバラに離れた席の配置にされ、コミュニケーションをとるのもやりにくくなったこともあったし、一時的にぼくの席が無くなったことがある。
「マネージャーなんだから開発端末で作業しないでしょ。進捗資料は窓際のフリー・スペースでも自分のPCで更新できますよね」と担当者は言った。
プロジェクト開始から四週間でぼくたちのチームはほとんど崩壊していた。

まずは韓さんが音を上げた。延々とわからないミドルウェアの設定に頭を悩ませた結果、次の月は契約を結ばないと王さん経由で伝えてきた。なんとか遺留したかったが意思は固かった。無理もない。ぼくだって逃げられるなら逃げたかった。
三人目のエンジニアだった陳さんの問題も発覚した。
「野原さん、ちょっと話があります」
ある日の夜中に呂さんがぼくに声をかけた。韓さんも陳さんもすでに帰っていてフロアにはぼくと神田さんと呂さんしか残っていなかった。
「どうしました?」
神田さんから少し離れたところに移動してから呂さんの話を聞きはじめた。

「もう陳さんは、チームから外れてもらうほうが良いと思う」と呂さんは言った。今まで黙っていたが、呂さんの経歴書はかなり「盛って」いて、技術的にはまったくこの現場にはマッチしていなかったのだという。彼に振り分けられていたタスクはほとんど自身の手に負えないもので、その分を自分や韓さんが隠れて処理していたのだ。韓さんが現場を離れると決めてしまったのも自分のタスクに加えて陳さんのヘルプまでやることにうんざりしていたからだった。
翌朝、陳さんは少し遅れて現場に現れた。「腰が痛く、少し遅刻します」とぼくのiPhoneには陳さんからのSMSが入っていた。ようやく出社したのは一〇時を過ぎた頃だ。空いている会議室にすぐ彼を呼び出し、前の晩に呂さんから聞いた話の真偽を問いただした。
「ちょっとそれは話が大げさと思います。たしかに手伝ってもらっていたけど、韓さんや呂さんが全部やっていたわけではないです」と陳さんは釈明した。
「じゃあ、経歴書に書いてあることは、全部本当なんですか? 生保の顧客向けサイトの開発リーダーとして三年間もやっていたんですよね?」
「……それは三年間のうち最後の三ヶ月間をリーダーをやっていたということです」
しゃべるほどにボロがでることを悟ったのか、陳さんはその後質問に答えてくれなかった。なにを質問しても日本語が急にわからなくなったようなリアクションをとり、まっすぐとこちらを見るだけだ。その焦点は、ぼくの背景、会議室の壁に向けられている。うつろな表情だ。

その日の昼休み後に陳さんは消えた。

電話もつながらず、SMSも拒否されている。王さんに電話をかけてもずっと話し中になっている。夕方、王さんから折返しがあった。
「陳さんなんですが、腰痛が悪化して今日は病院に行ったそうです」
「いや、それ本当ですか? 無断で現場を離れるって最悪のバックレですよ。それで明日は来ていただけるんでしょうか?」
「わからないですね。明日も腰が痛ければ、たぶんいけないと思います」「それ、もう絶対来ないじゃないですか! 困りますよ。戦力にならなくてもせめて頭数は揃えているように見せない。お客さんになんて説明すれば良いんですか? そもそも、陳さんって今月成果物ゼロなんですよ? そんな人にうちからお金払えないですよ」
「野原さんの気持ちはわかります。弊社としても責任は感じてます。でも出社した分のお金は弊社からも払ってあげないと契約を守らないことになってしまいます。困ります」
これ以上、なにを王さんに言っても事態は改善しないとぼくは悟った。
「良いですか? もう陳さんに関しては良いです。いや、良くないですけど、諦めます。その代わり、来月からの別の人員の手配をさらに急いでお願いします。韓さんの代役だって決まってないんだから」
「はい! がんばります」と言って王さんは電話を切った。

案の定、翌日から陳さんは現場に姿を見せなかった。月末になって陳さんからメールで謝罪文が送られてきた。《プロジェクトの成功をお祈りしています》という文末を見てから、ぼくはそのメールをすぐにゴミ箱に移動した。
その後に王さんから送られてきた新たなエンジニアの経歴書はどれもこれもまったく案件にマッチしないものばかりだった。手当り次第に送ってきているだけなのが丸わかりだったが、ぼくはもう苦情を言うのをやめた。

もはや進捗報告会での言い訳や改善案を伝えることも諦めていた。もうなにも思いつかなかった。「どうするつもりですか?」とクライアントに怒鳴られても、言い返さずに黙って時間をやり過ごしていた。心と身体を切り離すだけではなく、できるだけうつろな顔で怒鳴っている相手の鼻のあたりを見つめてみた。失踪する直前の陳さんの真似だ。
すると時間の無駄を察知してくれるのか、あるいは、これ以上追い込むとヤバい、と思ってくれるのか会議の議題を次に進めてくれた。横に座った神田さんの顔を覗いてみると、彼もまた表情で場を乗り切ろうとしているようだった。目を細め、眉間に深いシワを寄せ、今まさになにか名案を思い浮かべようとしている……が、出てこない。そんな顔だった。


二ヶ月目。勤務先の社長のみならず、中国にある勤務先の役員までもがわざわざ来日して現場を訪問した。例のCIOから強烈なクレームがはいったらしい。この炎上を処理することは全社的な至上命令へと格上げされた。
「社長はなんとかするって言ってますけど、どうするつもりなんですかね? ぼく、これうちの会社じゃどうにもならないと思うんですけど。技術者もいないし。はやく白旗上げて、謝っちゃったほうがお客さんのためにもなるんじゃないですか?」と神田さんに感想を伝えた。
「うーん、ま、あのふたり(CIOと社長のことだ)の関係を考えたら投げ出すわけにはいかないんじゃないの?」
たしかに社長はリングにタオルを投げ込むような真似をしなかった。
彼はとにかく人を突っ込んでなんとかしろ、と全社に指示した。戦術未満の悪手だが、やっている感は演出できる。毎日いろんな人が現場に顔を出した。その都度、現場への入館申請などの煩わしい事務が発生し、プロジェクトの現状説明の手間も発生した。ぼくの仕事は余計に増えた。
投入された人々のなかには、先月までホームセンターの販売員をやっていたという女性もいたし、本社でずっと事務をやっていた定年間際のおじいさんもいた。技術があるかどうかはまったく関係なく、手が空いている人がみんな送られてきたようだった。もちろん役に立つはずがない。「わたしではちょっと力不足ですね」と言ってぼくの説明を聞いてすぐに帰った人もいた。
ただし、良いこともあった。事務担当だったおじいさんに細かい事務周りの書類作成を引き取らせたこと。それから進捗報告会にでなくても良くなかったこと。顧客へ見せる体制図が書き換えられて、ぼくはエンジニアをまとめるリーダーに格下げとなった。マネージャーは若水さんという人に書き換えられた。

若水さんはIBMの金融部門でずっと働いていた人で、年は五〇代なかば。神田さんよりも少し上だった。IBMを辞めて紆余曲折あり、中国系のこの会社に流れついたらしい。
「お客さんへの説明メモをメールで送っておいてよ」
若水さんのいつものお願いだ。現場の状況の把握もいまいちだったし、技術的なことはなにひとつわからない。しかし、彼には年齢の分積み重ねた貫禄があった。ストレス発散のために怒鳴りつける相手には適さない雰囲気だ。「俺、生まれてからずっと川越に住んでるんだけどさ、IBMを辞める前に近所の市会議員から地盤をひきついで後継者にならないか、って誘われて本気になったことあるんだよ。自民党の長いことやってる人でさ。結局女房から近所の人にペコペコして暮らしたくないって言われて諦めちゃったんだけどさ」
あるとき、若水さんが身の上について語ったことがある。選挙ポスターに収まる若水さんの姿をぼくは容易に想像できた。身長はその世代にしては一八〇センチメートルぐらいあり、よく通るバリトンの声の持ち主は、川越市議会にしっくり来るような気がした。
「若水さん、もうちょっとでセンセイだったんじゃないですか。これからセンセイって呼びますね」とぼくは笑った。

進捗報告会は、長くなると一日に二時間以上はかかった。クライアントから怒られる役割をセンセイが担ってくれたのには今も感謝している。センセイが会議室で監禁されているあいだに、ぼくはテストのケース作成だとか先の工程のドキュメント作成にあてることができた。相変わらず、進捗のExcelは真っ赤のままだったが、段々と完了の行が増えていった。呂さんはひたすらプログラムを書き続けた。
さらに良いことがあった。クライアントの内部で大きな動きがあり、案件の一部を他社に再依頼することになった。僕らの開発部分がお客様向けホームページ部分の作成だけに限定され、社内の事務システムへデータを受け渡す部分の作成は他社が受け持つことになったのだ。他社への請求があとから自分たちに回ってくる可能性があったが、ぼくが個人で払う金ではなかったから素直に喜んだ。ミドルウェアの設定問題も他社のエンジニアがなんとかしてくれた。自分たちの担当じゃなくなった作業の行をぼくは気持ちよくExcelから削除した。

相変わらず残業は続いていたが、二ヶ月目の半ばぐらいには少しずつ水が流れ出した感覚がチームに生まれていた。チームと言っても実質的に手を動かしているのは呂さんとぼくだけで、あとは事務役のおじいさんと怒られ役のセンセイがいるだけだった。
一方で、メンバーの毎日のタクシー代や残業代でプロジェクトは赤字で終わることが目に見えていた。他社がぼくたちの作業を引き受けたことでざっと六〇〇〇万円ほどの赤がでるんじゃないか、とぼくは予想していた。ただ、その赤字もぼく個人が引き受けるわけではないからもうどうだって良かった。神田さんは、社内的にはその多額の赤字と、社外的にはプロジェクトの混乱を防げなかった責任をとってプロジェクト途中で更迭されることがきまった。「野原ちゃん、明日から俺、スペインに行ってくるから! しばらく連絡がつかないと思うからよろしくね!」と神田さんは言って、晴れ晴れした顔でサン・セバスチャンに向けて旅立っていった。更迭されて喜んでいる人もこの人ぐらいだろう、とぼくは思った。

三ヶ月目。システム・リリースの月だ。打鍵テストが本格化し、バグを一個ずつ潰していく。ブラウザによってデザインが崩れたり、想定通りの動きをしなかったりするものを調べて書き直していく。この頃はぼくもコードを書いていた。
テストケースは順調に消化され、ついにリリースの日を迎えた。リリース作業は夜間にはじまり、明け方までかかった。朝六時頃に開放されたぼくたちのチームは、立川駅までタクシーで移動し、二四時間営業の居酒屋で祝杯をあげた。緊張からの解放で飲みすぎたせいか、帰宅してから家のトイレで少し吐いた。

最後の一ヶ月。重点監視期間中は、ぼくも呂さんも現場に時折顔を出すだけでよくなった。出社するのは引き継ぎの打ち合わせのときぐらいで、あとの敗戦処理のような報告書や始末書の作成は、センセイとおじいさんが引き受けてくれていた。


夏は終わりかけていた。

三ヶ月分の一五〇時間超の超過勤務手当が手元には残った。給与明細には超過勤務時間と休日出勤時間と深夜勤務時間がそれぞれ記録されていたが、数字が複雑に入り組みすぎてどういう根拠で超過勤務手当が算出されているのか読み解けなかった。
会社もすぐに次のプロジェクトにアサインさせるのはまずいと思ったらしい。入社してから二連続で劣悪なプロジェクトを担当させてしまっている。次はもう少し落ち着いていてまっとうな仕事を選ばせてやろうという寛大な処置があった(当然だ)。ぼくはしばらく自宅待機を命じられた。業界的にはアベイラブルと呼ばれる、いつでも稼働できるが、アサインされるプロジェクトが決まっていない状態だ。
ぼくは荒んだ異常事態から日常に回帰するための、極めて折り目正しい生活を過ごしはじめた。毎朝六時ごろに起きて、朝食の準備をして、息子に食事を食べさせる。それから出勤していく妻を見送って、保育園まで息子を送っていく。家に戻ってくると筋力トレーニングをしてからランニングにでかけた。
毎日五〜一〇キロメートル走っていた。その日の気分や調子によって距離やコースは変わった。ぼくの家は、横浜と川崎の境目の、坂が多いエリアにある。家を出発して駅から離れるように走っていくと、すぐに水田や畑が広がる田園エリアに入る。
その風景はぼくの実家がある福島県福島市(のはずれにある温泉街の近く)のものとよく似ている。田んぼは水が抜かれていて、脱穀が終わったあとの黄土色をした稲が一箇所に集められている。懐かしい気持ちになる。実家は兼業農家だったから田んぼとリンゴやモモを植えた畑があった。稲刈りをしてすぐの稲は、田んぼに打った長い木の杭に重ねて天日干しにしてから脱穀していた。米の収穫とは長らく必ずそのようにするものだと思い込んでいたが、現代の大部分の米農家は稲刈り後すぐに脱穀して乾燥機にかけるらしい。ぼくの実家も今はそうしている。天日干しの米と、乾燥機にかけた米に味の違いはない。少なくとも自分にはわからない。進歩によって自然と技術の差が、ごくわずかとなっているということだろう。差異の消失は、ノスタルジーも産まない。
それから簡単なもので昼食をとり、仕事の連絡がないか確認したり、本を読んだりして過ごした。まとまった時間が取れるときに読んでみたい、と長らく思い続けていたジャック・ラカンの本を取り寄せて読んでいた。難しい本だ。ソファに寝転んで読んでいるとそのまま眠ってしまうことが多々あった。《フランスでも、ラカンの主著『エクリ』を読んでラカンが理解できるようになるものなど誰一人いない》。あるラカンの入門書にはこのような心強い一言が記されている。
夕方になると買い物へ行き、夕食の準備を済ませてから息子を迎えに行く。そして夜は早く寝てしまう。

平穏な繰り返しの日々はもう二ヶ月目に入っていた。顎髭にまぎれていた七本の白髪はいつのまにか三本にまで減っていた。なかなか次のプロジェクトは決まらなかった。それは落ち着いていてまっとうな仕事が見つかっていないことを示していた。

ぼくは転職活動をゆっくりとスタートさせていた。

「次はもっとまともな仕事を選ぶよ」とぼくは妻に宣言した。少なくとも次は自分たちにできもしない仕事をとってこない会社を選ぶ必要がある。

(続く)

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