インシデンツ(7)
手始めにハナホウ・ジローにコンタクトする。ひさしぶりに彼のサイトを訪れ、メールアドレスを確認する。「大変ご無沙汰しております。何年か前にご連絡差し上げた野原猪之吉のおいにあたる者です」と声に出しながらタイプする。さる人物の依頼により、ハワイアン・ウェイブスについて調べている。とくにバンド・メンバーの消息についてサイトに書かれている以上の資料や情報があれば提供してほしい。お礼はさせていただく、といった旨のメールを送る
さらに国会図書館のデータベースにアクセスし、バンドについての情報がないか検索してみる。バンド名、メンバーの名前ではヒットしない。
「ハワイアン」というキーワードで検索すると二〇〇冊近い雑誌と、五〇〇冊以上の書籍が検索結果に表示される。一九五〇年代後半から六〇年のあいだに雑誌『ミュージック・ライフ』が定期的にハワイアン・ミュージックの特集を企画していたことがわかる。当時の関心の高さがわかる。
六〇年のあとに特集が組まれるのは六五年のことだ。ハワイアン・ミュージックの新しい名盤を紹介しているらしい。その後、特集が組まれた形跡はない。ちょうど「ダイアモンド・ヘッドのために泣かないで」が発売される一〇年前だ。その頃にはもはやハワイアンというジャンルが、音楽ファンの関心を多く集めるものではなくなっていたことが推察される。
書籍は、ハワイアン名曲集やギター、ウクレレの教則本が多い。こちらは近年に入ってからも複数の出版社から新しいものがでている。根強いファンがいるのだろう。ぼくはハナホウ・ジローのことを考える。正確にはハナホウ・ジローのホームページのことを。トップページに表示された虹色のグラデーションがかかった立体文字で表示された「非公式・日本ハワイアン愛好会の部屋」というタイトルを。その横に表示されたヤシの木のGIFアニメーションを。ヤシの木陰ではウクレレを腹の上に乗せながら、居眠りをしている猫がしっぽを振っている。
音楽ガイドや評論のような本は少ない。ハワイアン・キルトやハワイ移住に関する書籍も検索結果には混じっている。手がかりになりそうな本は見つからなかった。打つ手がなくなる落胆には、安堵も混じっている。下手に手がかりが大量に見つかっても困る。
雑誌や書籍の検索結果以外には著作権切れの歴史的録音が含まれており、二曲がインターネット上でも公開されていた。いずれも一九三〇年代前半に録音されたものだ。「アロハ・オエ」と「マオリの月」という曲名がリスト化されている。前者は一九三二年にコロムビアから発売されたもので、ハワイアン・ギター五重奏団なるグループが演奏している。どういう楽器編成かの情報はない。演奏を聴く限りはスティール・ギター、ヴァイオリン、フルート、ウクレレ、バンジョーの組み合わせに思える。録音技術の貧しさのせいでヴァイオリンが終始蚊の鳴くような音色に聴こえるが、演奏自体は悪くない。どうやら音楽鑑賞教育の教材として録音されたものらしい。
後者は一九三一年に発売されたもので、ハワイとまったく関係がない曲名だ。一九二二年頃にニュージーランドの作曲家、ウォルター・スミスによって作詞・作曲された「Beneath the Māori Moon」をハワイアン風にアレンジしたものらしい。ウォルター・スミスは、ニュージランドのラグビー史に伝説的なフルバックとして名を残しているジョージ・ネピアのいとこにあたり、その縁があってか、ジョージ・ネピアも一九三六年にこの楽曲を録音している(これはYouTubeで聴ける)。
国会図書館が公開している録音には、羽衣歌子とアーネスト・カアイ・ハワイアン・カルテットの名前がクレジットされている。羽衣歌子は一九三〇年にデビューした東洋音楽学校出身の歌手で、クラシックの技術をしっかりと感じさせるベルカントでメロディを歌い上げている。伴奏のバンドに名を連ねているアーネスト・カアイはハワイ出身のギタリストであり、存命時はウクレレの第一人者としても知られる存在だったらしい。大正時代にはすでに来日経験があり、舶来のジャズ・ソング(タンゴ、ジャズ、ハワイアン。これらすべてをひっくるめて当時の日本人は「ジャズ・ソング」と呼んだ)を志向する日本のミュージシャンに多大な影響を与えた。一九二七年〜一九三七年には、極東とオーストラリア、さらにはスリランカをめぐる長いツアーに出ており、この録音はその長いツアーの最中で残されたものと思われる(このほかにも国会図書館のデータベースには三二曲の録音が登録されている)。
この十年にも及ぶツアーは、当時アジア随一の国際都市であった上海にハワイ村を作る計画の端緒となるはずだった。このため、カアイは訪れた土地でハワイアン・ミュージックの指導や楽器の教育メソッドを伝えていたという。しかし、この計画は盧溝橋事件を発端とする日中間の戦争によって諦めざるを得なくなる。失意のなかカアイはハワイへと戻る。そして、太平洋戦争がはじまる頃にマイアミへと移住し、亡くなるまでそこで暮らした。
ウォルター・スミス、ジョージ・ネピア、羽衣歌子、アーネスト・カアイ、上海のハワイ村。
もしアーネスト・カアイの教え子のなかにテディ金山の父親がいたら? ない話ではないだろう。テディ金山がハワイで生まれていたとしたらハワイで、そうでなくても上海、あるいは極東のどこかで。その出会いが満州であってもおかしくない。上海は文化の発信地であり集約地だった。極東のミュージシャンたちはそこで楽器を買い、新しい流行歌を仕入れ、また各地へ飛び立っていく。アーネスト・カアイが、あるいは、テディ金山の父が、満州で初めて営業を開始したダンスホールである金船舞踏場でスライド・ギターを披露する。その光景を東洋のマタ・ハリが見ている。ギターのネックの上を金属製のバーが滑っていく。
しかし、それは張本さんの父親の話とどうつながる? ぼくはうんざりしてブラウザのウィンドウを閉じた。
ハナホウ・ジローとは近く、会って話すことになった。
彼は東武東上線の上板橋に住んでいる、と言った。池袋から六駅の各駅停車しか止まらない小さな駅だ。駅の前には大量の自転車が放置・駐輪されており、そのハンドル部分に薄い緑色のユニフォームをきた高齢の男性が黄色い警告文を貼って歩いていた。
バリケードのようになった自転車の群れを越えた先に、ハナホウ・ジローが指定してきた喫茶店の入口があった。喫煙席と禁煙席が分かれていない古いタイプの店だ。店内を見回してもそれらしい客はまだ来ていなかった。当方は、年中アロハを着ておりますから、すぐわかると思います。彼のメールにはそうあった。案内された席のソファは、ところどころ合皮のカバーが破れていて、黒いガムテープで乱雑に補修がしてある。中のウレタン材も経年劣化でほとんど反発せず、ゴワゴワとして座り心地が悪かった。
ハナホウ・ジローが店に入ってきたのは、たしかにすぐわかった。白地にピンクのハイビスカスがプリントされたアロハ。間違いないと思い、目があった瞬間に席を立って会釈をする。身長は一七〇センチぐらいに見えたが、かなり太っているせいで全体的なバランスを欠いている。シャツの袖口からニワトリの胸肉のような色をしたに二の腕が見えた。街を歩くにはコートが必要な季節になっているというのに汗を拭きながらこちらに近づいてくる。生え際はかなり後退しているが、長く伸ばした白髪をゴムで後ろに束ねて止めていた。見た目から年齢が推察しにくいが、「ハワイアン歴六〇年」というホームページの自己紹介から推測するには、とっくに年金生活に入っている年齢だ。
手渡された名刺には、そう書いてある。「裏をみていただくと、本名も書いてございます」。
と裏にはあった。
「大正時代から続く呉服屋をやっておりまして、わたしで四代目になります」と彼は付け加えた。
「お忙しいところ、お時間を作っていただき、ありがとうございます」
「なに、どうせ先もない業界で、お客も滅多にありませんし、わたしの代で最後ですから。それよりも好きな音楽に関係することで時間がとられるなら大歓迎でございますよ」と言ってハナホウ・ジローは笑った。
「ところで、なんでまたハワイアン・ウェイブスのメンバーにご興味が?」
「詳細をどこまで言って良いのか、わたしも判断が付きかねるのですが、実はこのバンドのメンバーのなかに父親がいるかもしれないとおっしゃっている方からの調査依頼を受けておりまして。まずは何でも良いから情報を、と思ってハナホウさんにご連絡をさせていただいた次第です」
ハナホウさん、花岡さん、どちらで呼ぶのが正解なのか一瞬のためらいがあったが、ハナホウさんと呼びかける。今日はハナホウ・ジローとしてとして来てもらっている。
「なるほど」
「不思議な依頼ですよね。第一ぼくは探偵ではありませんし、依頼主もバンド・メンバーのだれが父親なのかもわかっていないんですから。それに依頼内容も父親について調べてほしいとこれだけで、居場所が知りたいだとか、そういう具体的な要望はないんです。ただ、まあ、色々ありまして、時間もありましたし、こうして調べて回っているところなんです」
ハナホウ・ジローは店員が運んできたアイス・コーヒーをストローで飲みはじめた。ガム・シロップは二つ使う。甘党のようだ。
「ふむ。しかし、難しい調べ物だと思いますよ、これは。世間からほとんど注目されることがなかったバンドですし、情報らしい情報もでておりませんからね」
「はい。ハナホウさんのホームページぐらいしかわたしも確認できていません。ハナホウさんのホームページにはどういう情報源があったんですか?」
「長いこと、ハワイアンを聴いておりましたからね。いろんなつながりがございます。一時期、モンド・ミュージックの文脈であのレコードの値段が急に高くなったことがありました。そのとき、これはハワイアンに興味をもっていただける良い機会かなと思いつきましてね。知っているハワイアンのファンに色々声をかけて調査をしたのが元になっているんです。ですから、独自調査ですな」
「そのつながりは今も生きてるんですか?」
ハナホウ・ジローは残念そうに首を振った。
「亡くなった人もおりますし、施設に入っている人もおります。わたしのようにインターネットを使って気軽に連絡を取れる人もおりません」
「そうですか……」
再び、落胆と安堵が入り交じる。
「ただ、ですね、ひとりだけ。ピアニストだった井川卓造氏とは連絡が取れるかもしれません。以前にこのバンドについて調べてみたとき、運良く連絡先を手に入れることができました」
ハナホウ・ジローは持っていたキャンバス地のトートバッグから手帳を取り出した。革のカバーに収められた手帳は古いメモや領収書を大量に挟み込んだおかげでひどく膨張しているように見えた。彼は手帳の後ろのページを一枚切り離し、連絡先をメモしてくれた。
「この連絡先が生きているかはご自身で確かめてみてください。実はわたしも井川氏と直接連絡をとったわけではないのです。仲間が取材を申し込んだのですが、その当時は断られてしまっております。井川氏にとって、ハワイアン・ウェイブスは良い思い出ではなかったのでしょう。元々彼はジャズ・ミュージシャンでこのバンドは無理やり付き合わされて加入していたようですから」
メモに書かれた字に視線を落とす。達筆だ。百貨店の専門のスタッフが熨斗に書いてくれるような字。
見慣れない市外局番だった。住所は愛媛県新居浜市とある。どんなところかまったく想像がつかなかった。四国のどのあたりだろう。その井川氏と幸運にも会う約束が取り付けられたとして、妻にどう説明して愛媛まで行こうか考える。妻にはこの依頼について一言も教えていなかった。
(続く)
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