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「利他」とは何か②

さて、前回に引き続き
「利他」とは何か
について、迫っていきたいと思います。

①では「利他」の主に2つの考え方を紹介し、それらにもとづくメリットや弊害を綴りました。

②では、著者の思う本質的な「利他」と、その実践について書き連ねます。

※このテキストは、著書を抜粋して記載しております。

▶他者のコントロール
特定の目的に向けて、他者をコントロールすること。
これが利他の最大の敵なのではないか。

著者はこれまでの研究の中で、他者のためになにかよいことをしようとする思いが、しばしば、その他者をコントロールし、支配することにつながると感じ続けてきた。

善意がむしろ壁になる。

例)全盲者の西島さんの場合
19歳のときに失明してから、自分の生活が「毎日はとバスツアーに乗っている感じ」になってしまった。
●「ここはコンビニですよ」
●「ちょっと段差がありますよ」
どこに行くにも、晴眼者がまるでバスガイドのように先回りして教えてくれる世界になってしまった。

障がい者を演じなきゃいけないのかなという、窮屈さを感じるようになった。

困っている人を助けたいという想いはもちろん素晴らしいことなのだが、それが、しばしば「善意の押し付け」という形をとってしまう。

障がい者が健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまう。

▶信頼と安心
自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。
やさしさから、つい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しである。

★信頼と安心は全くの別物?

信頼は社会的不確実性が存在しているのにも関わらず、相手の(自分に対する感情までも含めた意味での)人間性ゆえに、相手が自分に対してひどい行動はとらないであろうと考えること。これに対して安心は、そもそもそのような社会的不確実性が存在していないと感じることを意味する。
社会心理学者 山岸俊男

安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態。
要するに相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。

それに対して、信頼は相手が想定外の行動をとるかもしれないこと。
それによって、自分が不利益を被るかもしれないことを前提としている。つまり、「社会的不確実性」が存在する。にも関わらず、それでもなお相手はひどい行動をとらないだろうと信じること。これが信頼である。

人は相手の自立性を尊重し、支配するのではなく、ゆだねている。
これがないと、ついつい自分の価値観を押し付けてしまい、結果的に相手のためにならないというすれ違いが起こる。相手の力を信じることは、利他にとって絶対的に必要なもの。

▶利他の大原則
利他的な行動には、本質的に「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という「私の想い」が含まれている。

重要なのは、それが「私の想い」でしかないこと

「自分がこれをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」という押し付けが始まるとき、人は利他を自己犠牲ととらえており、その見返りを相手に求めていることになる。

「自分自身を、他者を助け問題を解決している救済者とみなすと、気づかぬうちに権力志向、うぬぼれ、自己陶酔へと傾きかねません」
ー ハリファックス


▶コロナ渦での相互扶助
イギリスのブライトンである日本人が見た光景。
町がロックダウンしているさなか、一人暮らしのお年寄りや自主隔離に入った人に食料を届けるネットワークをつくるために、自分の連絡先を書いた手づくりのチラシを自宅の壁に張ったり、隣人のポストに入れてまわっている人がいた。

普通なら、個人情報が悪用されるのではないかと警戒するところだが、そうではなく、自分にできることをやろうと動き出した人がいた。

政府などの上からのコントロールが働いていない状況下で、相互扶助のために立ち上がるという側面もある。
※「災害ユートピア」…地震や洪水などの危機に見舞われた状況で、人々が利己的になるどころか、むしろ見知らぬ人のために行動するユートピア的な状況を指した言葉。

▶ケアすることとしての利他
どうしても、私たちは「予測できる」という前提で相手と関わってしまいがち。「想い」が「支配」になりやすい。

利他的な行動をとるときには、特にそのことに気をつける必要がある。

そのためにできることは、
相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聴く」こと以外にない。
知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること。
利他とは私たちが思うよりも、もっとずっとずっと受け身なことなのかもしれません。


さきほど、信頼は相手が想定外の行動をとるかもしれないという前提に立っていると指摘しました。

「聴く」とは、この想定できていなかった相手の行動が秘めている積極的な可能性を引き出すことでもある。

他者の潜在的な可能性に耳を傾けることであるという意味で、利他の本質は他者をケアすることなのではないか。という著者の考え。

それは、介助や介護と言った特殊な行為である必要ではない。
むしろ、「こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだな」という距離と敬意を持って、他者を気遣うこと、という意味でのケア。

ケアが他者への気づかいである限り、そこには必ず意外性がある。

自分の計画どおりに進む利他は押し付けに傾きがち。
しかし、ケアとしての利他は、大小さまざまなよき計画外の出来事へと開かれている。

よき利他には、必ずこの「他者の発見」がある

さらに解釈を進めてみると、よき利他には必ず、「自分が変わること」が含まれている。相手と関わる前と後で、自分が全く変わってなければ、その利他は一方的である可能性が高い。

他者の発見は自分の変化の裏返しにほかならない。

▶計画倒れをどこか喜ぶ
例)ある老人ホームのスタッフ
例えば、スタッフが「22:00までに全員入浴」という計画を立てたとします。
けれども、それを実行することを優先してしまうと、それがまるで「納期」のようになってしまって、お年寄りをモノのように扱うことになってしまう。お年寄りは、そんなビジネスの世界には生きていない。計画を立てないわけにはいかないけれど、計画通りにいかないことにヒントがあるのだ。

とくにボケのある、お年寄りはこちらの計画には全く乗ってくれない。それを真面目に乗せようとすれば、非常に強い抗いを受ける。その抗いが支援する側と対等な形で決着すればいいが、やはり最終的にはスタッフ側が勝ってしまう。下手をするとお年寄りの人格が崩壊することにもなる。
だから、どこか計画倒れを喜ぶところがないといけない。計画倒れのときに、本人が1番イキイキしていることがある。


▶うつわ的利他
利他について、このように考えてゆくと、ひとつのイメージが浮かび上がる。

→それは、利他とは「うつわ」のようなものなのではないかということ

相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に自分が変わる可能性としての余白でもあるでしょう。

他人へのケアという営みは、まさに意味の外で行われるものであるはずだ。ある効果を求めてなされるのではなく、「なんのために?」という問いが失効するところで、ケアはなされる。こういう人だから、あるいはこういう目的や必要があって、といった条件付きで世話をしてもらうのではなく、条件なしに、あなたがいるからという、ただそれだけの理由で享ける世話、それがケアなのだ - 哲学者 鷲田清一

作り手の想いが過剰にあらわれているうつわほど、まずいものはない。
特定の目的や必要があらかじめ決められているケアが「押し付けの利他」でしかないように、条件にあったものしか「享け」ないものは、うつわではない。「いる」が肯定されるためには、その条件から外れるものを否定しない、意味から自由な余白、スペースが必要。

▶余白をつくる
こうした余白、スペースはとくに複数の人の「いる」、つまり「ともにいる」を叶える場面で、重要な意味を持つ。

例)会議の場面
もしそこで、事前に決められた役割とアジェンダにそった発言しか許されないとしたら、その組織は想定外の可能性を受け付けない、硬直した組織ということになるでしょう。管理はされているかもしれませんが、人は活きていません。

あらゆる仕事は本質的には、ケアリングである。
川に橋をかけるのは、そこを渡りたいと思う人をケアするため。
改札が自動化しても駅員が待機しているのは、重い荷物を持った人やその土地に不案内な観光客をケアするため。

ところが、人々が数字のために働き、組織が複雑化して余白を失っていくにつれて、仕事からケアが失われている。その先にあるのは、自分がなんのために働いているか、利他の宛先の無い、虚しい労働でしょう。

▶利他の「他」は誰か?
ここまで、「利他」という問題について、さまざまな論者の考えや具体的な事例に即して、考えてきました。

→まとめ
●利他とは、「聴くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことである。
●と同時に、自分が変わること。
●そのためには、こちらから善意を押し付けるのではなく、むしろうつわのように「余白」をもつことが必要である。


最後に確認しておきたいのは、利他というときの「他」は人間に限られるものではない。ということ。人間以外の生物や自然そのものに対するケアのことを考えなくてはなりません。

自然は人間が思うよりずっと相互扶助的なもの。
もちろん、自然界には競争がありますが、すべての生物は合成と分解のプロセスを通じて、互いにエネルギーや物資を与えたり受け取ったりしながら、相互に依存しつつ生きています。

あまりに競争の側面にばかり気をとられてきたこれまでの人間の在り方を利他的なものにしていくためには、自然に対する捉え方から考えなおしていかなければいけないのかもしれません。

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