火の粉の涙 -ジモクカゲロウ-
一体、なんだ。
辺り一面は、ひと月前から降り続いている雪が積もっていた。砂糖のように純白で、綿菓子のように軽い純白の雪の表面は、常に新雪へ更新される。ところが、どういうことだ。 少女がへたり込んでいるその場所だけは、春にしかまみえない赤土が露出している。そして、その上には、
「わああーーん!あぁーー!」
彼女の瞳からポタポタとこぼれ落ちる火の粉が燦々と降り積もっていた。
遠い昔、もう何十年も前のことだが、死んだ母親が一度だけこの土地に伝わる逸話を話してくれたことがあった。それは、春を司るおかしな、けれど可愛らしい神獣の物語だった。
一年のうち、ほとんどを雪に覆われているこの土地は、“カゲロウ”という神獣によって守られているという。カゲロウは、『陽炎』と書き、また『蜉蝣』とも書く。その口から出す炎の息吹によって雪を溶かし、春をもたらすから、『陽炎』。そして、生まれてすぐその力を放出すると、まるで蜃気楼のようにまどろみ、あっという間に消滅してしまうから、『蜉蝣』と名付けられたそうだ。
そう教わったはずだったのだが──
目の前の少女は、獣ではなく極々普通のどこにでもいるような年端もいかない女児だ。さらには、分厚い雪を溶かすのは息吹ではなく、炎の涙。ましてやそれは、溶岩のように地面に溜まり、終いには冷え固まって岩となりつつある。
神獣というには、あまりにも人間に近く、それでいてあからさまに人間のそれではない。とは言うが、いずれにせよ子どもに代わりはないだろう。
「尋ねるが、一人か?」
「!」
「何もしない。私はここから動かず、そなたと話そう」
「………」
少女はピタリと泣くのをやめ、身を引いた状態で私を睨めあげた。両手を地面につけたその姿からは、様子を見て逃げ去るつもりでいることが分かる。片腕が自身が流した溶岩に手首のあたりまで埋まっているが、顔色ひとつ変わる様子はない。。それどころか、私が一度でも身じろぎしようものなら、その赤々と光る溶岩を私に投げつけようとさえ考えているように思う。
「私はジモク。耳に目と書く。その名につくだけあって、この年でも目と耳は若者に劣らぬ」
この少女を見つけるに至ったのも、積雪を踏みしめる音にかすかに紛れる幼子の泣き声を聞いたからだった。
「そなたの名は何と言う?」
そもそも言葉が通じるだろうかという懸念はあった。見た目こそ人間だが、『神“獣”』ともなれば意思疎通はしかねる。いやしかし、『“神”獣』ともなれば話は別なのだろうか。
「………」
言葉は発しない。ただひたすらに私のことを真っ直ぐに見つめている。どうしたものか。 「私は、そなたの泣き声を聞きつけ、ここへやってきた。村から離れたこの場所で幼子が迷子になってしまったのならば大変なことだと思ったからだ。……そなた、おふくろ様はどうした?」
瞬間、一切まばたきをせず睨みをきかせていた瞳が大きく揺れた。さらに、不安に押しつぶされる寸前のかぼそい声がぽつりとこぼれる。
「おらん」
じわりと瞳が濡れ輝く。それはまるで、焚き火から昇る火の粉をかき集めたかのように眩い。
「そうか……となれば、私と同じことだ。おふくろ様がいないのは、寂しいものだ」
「………」
朧気な瞳が粉雪のように波を描いて視線を落とす。そのまま腰を曲げてしゃがみ込み、
鼻をすすった。
「寒いだろう。火をつけたいのだが、荷を崩してもいいだろうか?」
つむじが上下に一度だけ揺れた。気を張り続けるのも疲れたのだろう。少女は、好きにしろと言わんばかりに最早こっちを見ようともしない。
私は背負っていた荷をおろし、火種と火打ち石を取り出す。雪を掘って土を露わにすると、焚き火の準備にとりかかった。
火をつくっても少女が傍に寄ることはなかった。寒さを感じないのだそうだ。考えてもみれば、火の涙が出るのだから体液もそれ相応のものなのだろう。
こちらに寄ってくることはないが、離れてどこかへ行ってしまうこともない彼女は、ただぼんやりと焚き火を見つめている。どことなく睡魔と闘っているようにも見える。
そういえば、昼餉がまだであった。腰巾着にしまっていた握り飯は、すっかり凍り付いてしまっている。仕方がない。火にあて柔らかくなるまで待つとしよう。少々こげつくが、それもまた味になるはずだ。
私が焚き火の上に竿を立てていると、少女が興味深げに首を右往左往させ始めた。昇り火で炙られた握り飯の匂いが鼻腔をくすぐる。それについては彼女も同じだったようで、唾が出るのか口をもごもご動かしていた。
「焼けたぞ。一緒に食べよう」
少女は、迷いのない足取りで私のすぐ傍にやって来た。丸々とした瞳は香ばしい香りを放つ焼き飯に釘付けだ。
「そら、気をつけて食べなさい。やけどしないよう」
少女は、まず私の手の中から一口かぶりつき、それを飲み込む前に自分の手で焼き飯を持って黙々と食べ始めた。なかなか良い食べっぷりだ。
あっという間に食べてしまった後は、頬についている米を一つ一つつまんで、それこそ一粒も残さず完食してしまった。
「これも食べるといい」
大人の男が作った握り飯だ。子どもには大きいはずだが、少女の食べっぷりを見るに、もう一つも難なく食べきるだろう。
しかし、彼女はそっぽを向いて一言ごちた。 「いらん」
「む、そうか。物足りないようだと思ったのだが…。まあ、よい。ならば、私が食べるとしよう──」
ばち、と目が合った。
「なんだ、やはり欲しいのか」
「いらん」
「遠慮はいらぬ。食べなさい」
「いらんもん」
「そうか……」と、焼き飯を口に放り込もうとすると、やはり目が合う。
「……私を気にすることはない。屋に帰れば米はあるのだ。炊けば食べられる。つまりは、これはそなたが食べれば良い」
「………」
相当迷っているようだが、先からずっと口は動いている。涎が後から後から出てくるようだ。
「ほら」と、その小さな手のひらに焼き飯をのせてやると、ようやく決心がついたのか、礼を言って一心に食べ始めた。
「(なんと遠慮深い子だろうか……)」
神が実際にどんな方なのかわかったものではないが、こんなにも人らしいことがあるだろうか。見た目が幼子であるから、そう思うだけだろうか。飯を頬張るその口からは火の粉のような光の欠片が時折舞い出ている。その光景を見れば、彼女は確かに人間ではないことはわかるのだが──。
「あい」
「……?」
四分の一ほどになった握り飯が私の目の前に差し出された。自分の拳大の握り飯を片手に、少女は頬についた米を器用につまんでは口に放り込んでいる。
「腹が膨れた……というわけでもなさそうだ」
礼を言って、焼きたてのように温かい握り飯を頬張ると、少女は満足そうに鼻息を漏らした。
ジモクという男は、自分について話した。
このシバ村で生まれ今まで生活していること。父親は自分が生まれる前に雪崩に巻き込まれて死んでいること。母親も十になる年に同じく雪崩によって命を落としたこと。身よりがなくなってからは幼なじみのタイジャク一家に世話になったこと。今ではその孫のレイの守に一役かっていること──。
「今朝は狩猟に来たのだ。タイジャクの調子が優れなくてな。元々体の弱い奴なのだが、最近はめっぽう良くない。そこで、栄養をつけさせようと鹿や熊の肉をと思ったのだ」
ジモクの背におぶさり、寒くないようにとクマの毛皮でつくられた上着で覆われた状態のワタシは居眠り半分にその話を聞いていた。見た目の割に真っ直ぐな背中から振動となって耳に入ってくるジモクの低い声は、土の中を掘り進むモグラの足音に似ている。
「ところで……そなた、名は何という?」
途切れた子守歌にワタシはハッとした。
さく、さく、と片足ずつ雪に踏み入る音だけがする。ワタシが答えなければ、それはそれで構わないのだろう。なぜなら、ワタシを背に乗せてから一度もおぶり直すことなく、歩き続けているのだから。ワタシもワタシで、目を覚ます前までの記憶がすっかり抜け落ちてしまっているので、何を話そうにも話す種がなかった。だが、ジモクが自分の身の上話をしている途中、ふと思い出したことがある。
「カゲロウ」
ワタシの名だった。
一瞬、ジモクの歩みが止まった気がした。しかし、それは本当に一瞬で、足を雪から引き抜く速度が落ちただけのようだった。
さく、さく。先よりもゆったりとした足取りだ。
「では、カゲロウ……もしも行く当てがないのであれば、私の屋に来ないか?」
聞けば、ジモクが住む家屋は一家族が不自由なく暮らせるほどの大きさで、一人で生活するには広すぎるらしい。村の人間は良い者たちばかりで、ワタシを快く迎え入れてくれるはずだそうだ。ジモクの話はとてもありがたいものだった。記憶が蘇るまで、傍におかせてもらおう。何より、ジモクの悲しみのこもった背の感触から、今は離れることができなかった。