デジタルな博物館 と デジタルの博物館
「日本にもコンピュータの博物館を創りたい」というのが,自分の夢.どうも前山です.
このツイートについて,思ったことを書きます.このツイートのリプ欄とか引用リツイート欄には興味深い事が多く書かれていて,ツイートをした方(博物館・プラネタリウムで働いている方)が,丁寧にコメントをしているので,大変勉強になります.
自分も「資料をデジタル化したら,それで解決か?」という問いにはもちろん否定的な意見を取ります.なぜなら,ついつい忘れがちですが,そもそもそのVRすらも,いつかは保存・歴史学の対象になるからです.
しかし,「資料をデジタル化すること」に対する反対意見の一部にも,疑問が残ります.コンピュータ・情報化時代の歴史学を研究している人として,2つのことを話したいと思います.
1つは,そもそもデジタルなデータとして生まれた資料(ボーンデジタル資料)をどのように扱っていけばよいかを,考えなければいけない時代になってきたということです.
これは,ゲームやSNSの情報発信,ウェブページなど,資料保存の重要性や需要がある分野の先行事例が積み重なってきました.ただ,もっと身近な日々の暮らしの中にある”ちょっとしたソフトウェア”も保存していかなければ,今という時代を再解釈できなくなってしまうかもしれません.
■いやいや,博物館資料をデータ化する!っていう話であって,ボーンデジタルなモノの話ではないでしょ.というのはごもっともです.ではなぜ1点目で「ボーンデジタルな資料」の大切さをわざわざ主張するのかというと,それが2点目の話に繋がります.
もう1つには,上記のツイートの反応に対する意見になってしまいますが,本当に「デジタル」な「情報」は,無味乾燥で,データ以上の事柄を語らないモノか?ということです.
勿論,歴史学の研究者として,”モノ”の大切さは痛いほどわかりますし,自分もそれを掘り起こすことも研究の重要な要素です.しかし,コンピュータが社会や暮らしのより中枢に入り込んできた情報化時代の歴史を描く場合には,「デジタル」もまた,豊かな歴史を語りうるということを問い直さなければならないように思います.
例えば(それ程,派手な青春時代を送ってきたわけではないですが)自分が中学生・高校生になったときには,自分のことは,自分よりも「ケータイ」や「スマホ」の方が詳しくなっていました.
今も,連絡帳を見ると,懐かしい顔や思い出がよみがえってきます.そのデジタルデータは,必ずしも冷たい0と1の行進ではなく,自分にとっては暖かな思い出でもあるのです.個人史という観点から見れば,確かに実在する史料と言えるのです.
今回のツイートは,博物館資料のデータ化すれば原資料を捨てても良いのではないか?という意見に対する話でした.その意見は多いに賛同できます.
ただ,自分は,博物館資料のデータ化は,単に原資料の詳細な記録でもないと思っています.むしろ,それが利活用されることは,
”現代の科学技術で歴史・文化を咀嚼している”という文化
とも言えるのではないでしょうか.言い換えれば,データ化してVRで楽しむこともまた人間の歴史であり,コンピュータ時代=現代の文化なのだと思います.
ありきたりな話かもしれませんが,データ化するということで,目が見えなくとも触れるようになったり,耳が聞こえなくても楽しめる.そんな可能性も満ちているように思います.
デジタルだから情報が落ちているんだ!という単一的な意見によって,「データ化という文化」が否定されることもまた,
「データ化によって資料が捨てられていく」
ということと同じように,悲しく思います.
自分は,デジタルという文化を,資料によって描いていきたいし,資料と共に後世に残していきたいと思っています.